くまもと自転車紀行

熊本市およびその周辺を走行した記録や装備・メンテなど、自転車にまつわることがらを中心としたブログです

石に刻まれた「教訓」

明日で東北大震災から10年。 沿岸部では巨大津波によって数多くの方が亡くなったが、熊本でも200年ほど前に約5000人の犠牲者がでるほどの大津波があったので、その被害地のひとつ、河内町に行くことにする。 朝7時過ぎにクロモリロードバイクで出発し、ゆうかファミリーロードを走って、

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太郎迫から県道101号線を上がるいつものコース。

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JA芳野から右折して、野出峠から有明海を眺める。

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残念ながら「立入禁止」になってしまった「ナルシストの丘」に立ち寄って、

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その少し手前から激坂を下り、

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聖ヶ塔病院のところにおりて左折して河内町船津へ。 寛政4年(1792年)4月1日、島原の眉山の斜面が崩れ、膨大な量の土砂が海に流れ込んで大津波が肥後藩の玉名郡から宇土郡までの海岸線を襲った。

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(眉山の斜面はその時の崩落のために大きく窪んでいる)

被害の酷かった船津村の蓮光寺の

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本堂も津波で流され銀杏の樹だけが残されていた。

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(寛政の大津波を経験した大銀杏)

再建された山門の脇には供養塔が建てられ、

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この周辺で765名の溺死者が出たことが刻字されている。

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当時、鹿子木村(現在の熊本市北区鹿子木町)の庄屋、鹿子木量平は被害を受けた船津にかけつけて生存者に聞き取りを行い、死者やけが人の把握に奔走した。

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その後の調べでは死者は島原で1万人、肥後熊本でも5千人に及ぶ災害であったことが判った。 量平は「被害の大きかった船津村に、この出来事を忘れることがないように石碑に刻み、多くの人が行き交う道路沿いに建立しよう」と思い立ち、津波襲来から3年後の寛政7年(1795年)、ついに「津波教訓碑」が完成。

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(左が津波教訓碑、中央が津波の犠牲になった個人墓、右が石灯籠の竿石)

石碑の四面に刻まれたその教訓を現代語に訳して要約すると、

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「海岸に寄せ来る津波の音に驚いて、逃げ出そうとした者のうち、船を繋ぎに行ったり、家財を取り出そうとして命を亡くした者も多かった。何事にもこだわらず、速やかに逃げた者は助かった。もしも後の世に同じような津波が襲った時は、すべてのことに優先して、ただお年寄りを助け、幼い子どもを連れて直ちに避難しなければならない。かねてより逃げ道を確かめておき、いざという時になって迷うことがあってはならない」

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5年前の熊本地震の際に、周辺の沿岸部に高さ1mの津波警報が出された時も、多くの住民が量平の残した「教訓」の通りに連れ立って蜜柑山の坂を駆け上がった。 さて、その後、量平は益城郡杉嶋手永の惣庄屋に任命されたのを初めとして、何カ所かの惣庄屋を歴任した。特に文化元年(1804年)、52歳の時に、現在の八代市鏡町が含まれる野津手永の惣庄屋となった際には、八代海を埋め立てて新しい広大な農地を拓き、「干拓の恩人」として,八代市鏡町の文政神社に祀られている。

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河内町からは県道101号線、

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県道1号線を走って鳥越峠を越えて、長い下りの途中に立ち寄った本妙寺の本殿横には宝篋印塔型の「津波供養塔」がたっている。

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大津波の後、多くの被災民の鳥越峠を越えて城下へと集まってきており、被災民の救済を行なった城下古町の友枝太郎左衛門とその弟が願主となって造立した。

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色々な救済が藩をあげて行われていたことも石碑が物語っている。

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なお、寛政大津波についてもう少し詳しく知りたい方は、こちらと、こちらの過去記事をどうぞ・・・。 本日の走行距離:48.7㎞

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