江戸末期に造られた美里町の「岩野用水」を見に、朝6時半頃クロモリロードバイクで出発。
出水ふれあい通りから画図の田舎道を走り、中の瀬橋、
めど町橋を渡って緑川左岸を遡上し、甲佐から国道443号線に入って南下。小筵(こむしろ)の交差点を直進して峠を越え、鶴場簡易郵便局の近くにある石橋・妙見橋の
下を流れる白石野川の釈迦院川に合流する少し前には堰が設けてあって、
その取水口から岩野の集落まで約4㎞の「岩野用水」が始まる。
水路はしばらく国道443号線横の釈迦院川沿いを流れ、やがて国道の反対側へ行き、
しばらくすると難所の岩盤が国道の南側に見える。
少し戻って坂をあがって用水沿いに岩盤方面へ進み、
イノシシ避けの柵を開けて進んで行くと、70~80メートルほどの区間は岩盤を削って水路が造ってある。
この用水が造られた江戸末期、この難工事は火薬を用いて岩盤を爆破するという技法が取られた。
水路横の岩盤の壁面には文字が彫られていて、
「弘化二年(1845年)霜月
石工 砥用手永甲佐平 利八 太八」と読める。
また、少し離れた壁面には細川家の九曜の紋のようなものも彫られている。
水路はこの後、林や集落を抜けて行き、
岩野地区の16町歩の水田を潤している。
用水の終点近くには「灌水道之碑」が建っていて、
この水路が矢嶋忠左衛門らによって造られたことが刻まれている。
矢嶋忠左衛門は、当時、中山手永(現在の美里町)の惣庄屋で、益城町の「四賢婦人」の父親である。
ここで当時の「手永制度」を少しだけご説明・・・。
江戸時代、熊本藩では領内全域を「手永」と呼ばれる行政区画に分けて村を束ね、責任者として惣庄屋を任命した。この惣庄屋は当初、世襲制であったが、やがて能力の劣る庄屋は任命されなくなった。逆に能力のある庄屋には転任もあった。鹿子木村の庄屋・鹿子木量平が寛政の大津波の事後処理に手腕を発揮し、文化元年(1804年)に野津手永惣庄屋に任命され、八代海の干拓事業に着手し、広大な新地を造りだしたのがその一例である。
益城の庄屋・矢嶋忠左衛門もその才能を見込まれ、葦北の湯浦手永の惣庄屋に任命されて手腕を発揮し、その後、中山手永へ転任していた。現在の美里町堅志田(かたしだ)の旧・中央町役場跡には、かつて江戸時代の会所(役場)があり、そこに矢嶋忠左衛門一家も暮らしていた。
先日レポートした16歳の矢嶋順子も、この地から竹崎律次郎の元へ嫁いで行ったという。
当時の生活を想像しながら堅志田を後にして、船津を経由して
麻生原へ右折し、キンモクセイをチラっと見て緑川左岸に下り、
朝来た道を戻った。
本日の走行距離:63.3㎞