くまもと自転車紀行

熊本市およびその周辺を走行した記録や装備・メンテなど、自転車にまつわることがらを中心としたブログです

山隈権兵衛(やまぐまごんべえ)ライド

いつもより遅めの時間に八代方面へ行くつもりだったけど、10月になっても真夏日の予報のため予定を変更して朝5時半頃クロモリロードバイクで出発して東バイパスから北バイパスに入り、

県道337号線に降りて東へ走る。

富士フィルムの工場の所から左折し、鉄砲小路の先から堀川・上井手沿いを走る。

瀬田堰で白川から取水して大津・菊陽・合志を約24km流れ、坪井川へと流れる上井手(菊陽町原水からは「堀川」)は、加藤清正が着手して、加藤忠広、細川忠利・光尚と4代の肥後藩主が取り組んだ事業で、白川中流域の水田開発による稲作の発展のみならず、熊本市内での豊富な湧水などの水資源をもたらしている。

しかし、その間に自然災害の猛威が及ぶことも多く、中でも寛政8年(1796)と文政11年子の年(1828)の2度の洪水による上井手川周辺の損壊は甚大で、その改修は遅々として進まなかった。

そんな時に白羽の矢が立ったのが山隈権兵衛(やまぐまごんべえ)であった。

安永6年(1777)に合志郡竹迫に生まれた権兵衛は17歳の時に山隈家を相続した。当時一家は困窮しており、権兵衛は村帳書(むらちょうがき)役となり、日夜努力して文化元年(1804)には布田手永(西原村から南阿蘇村久木野にかけて)の会所手代役、文政10年(1827)には布田手永惣庄屋兼代官職に、その後、宇土郡松山・阿蘇郡高森などの惣庄屋を歴任し、農業や養蚕を勧め、人々の貧窮の救済、墾田・植林・築堤・灌漑などの事業を手掛けていた。

権兵衛が手掛けた宇城市松合の街並み

弘化元年(1844)に大津手永の惣庄屋となった山隈権兵衛の手によって、大井手は沿線の5箇所で大規模な改修が行われた。中でも水害の原因となることの多かった引水の「丹防の吐」は大井手の水を下井手へと吐出させる水門で、

その周辺の地名ともなっている。

大津手永での役目を9年間務めて嘉永6(1853)年に老齢を理由に辞職した権兵衛に、あらたな依頼が舞い込んだ。

肥後藩は北合志(現在の旭志)の湯舟に潅漑の為の堤の築造を計画したが非常な難工事で未だ竣工できずにいたのだ。

依頼を受けた権兵衛は住まいのある大津手永会所から

連日徒歩で通って2年間、寝食を忘れて現場の指揮に当たったが、安政2(1855)年9月15日に工事半ばで死去。その後は権兵衛の子の新左衛門が受け継ぎ、翌年に無事完工した。

大津町の手永会所跡から権兵衛が日参したと思われる道を辿って尾根を二つ越え、途中、ひょっとしたら権兵衛もお参りしたかもしれない矢護川の円通寺の境内の馬頭観音にお参りして

「湯舟溜池」へ。

堤防には左右にその後の改修記念碑の並ぶ中央に「山隈権兵衛翁の碑」が建っていて、

その近くにはこの堤の建設・改修工事で命を落とした人への慰霊碑も建てられていた。

堤防からの景色を楽しんだ後は坂を下り旭志町の高柳、小原、

伊坂を抜けて県道329号線、316号線を走り、合志市竹迫(たけば)の、上町にある医音寺周辺にあるとの情報があった権兵衛の墓を捜したが見つからず、

光の森を抜けて、県道337号線、北バイパスを走って帰った。

本日の走行距離:55.5㎞