東京五輪汚職事件のニュースを見ていて、
恥ずかしながら広告代理店なのに、どうして社名に「電通」と、広告とは関係なさそうな名前が付いているのか知らなかったので調べてみたら、その「電通」の創業者が、熊本の八代郡氷川町の出身だと言う事が判ったので行ってみることにする。
いつものように中の瀬橋、めど町橋を渡って
国道266号線、県道313号線、312号線、244号線を走り小川町を抜けて氷川町へ。
ここで生まれ育ったのが電通の創業者・光永星郎(ほしお)である。
光永星郎は慶応2年7月26日(1866年9月4日)八代郡氷川町野津北井上の集落で生まれた。幼名は喜一。雅号は「八火」。軍人、政治家を志していたが挫折。日清戦争の際に従軍記者として活動した経験から通信社の創立を構想するが、通信業単独では採算がとれないので1901年7月1日に日本広告株式会社を創業し4カ月後に電報通信社を創業。1906年12月27日には前述ふたつを経営一体化し日本電報通信社を創業した。会社は第一次大戦の報道で急成長したが、1931年に満州事変が起こると、政府は国内情報通信機関の一元化を図り、通信他社との合併化を強いたため、日本電報通信社は通信部を譲渡し、以後、広告専門業者として再出発した。戦時下の広告界は苦難の道を歩むが、光永は戦後の繁栄を見ることなく、1945年(昭和20年)2月20日享年78で死去した。
没後25年の1970年(昭和45年)、熊本県の近代文化功労者として顕彰された。また、1973年(昭和48年)には記念事業として光永の雅号を冠した「八火図書館」が氷川町に開かれたが老朽化に伴い、平成27年、図書館と
振興局の機能を持った複合施設となり、
図書館とは別の部屋に「八火ギャラリー」と称して光永星郎の生涯に触れることのできる空間も確保されている。
そんな光永星郎の座右の銘は「健・根・信」。
「健」は健康、「根」は、根気、「信」は、信義を意味し、光永の母校である宮原小学校の校訓ともなっている。
その宮原小学校から北東へ100mほど進んだ丘の中腹の墓地に立派なお墓と
胸像が建てられて光永星郎は静かに眠っている。
氷川町宮原からの帰路、光永星郎の生誕の地、氷川町野津北井上の集落を散策した。
さて、その後の電通は光永星郎の弟・真三が社長を継ぎ、戦後は、同じ八代郡氷川町宮原出身でジャーナリストとして名をはせた後に電通に入社した上田碩三が三代目の社長となったが、
GHQによる公職追放となったため四代目の社長として生え抜きの吉田秀雄が就任した。
吉田の提唱した「鬼十訓」と呼ばれる社訓を基に会社は急成長し、現在では日本第一位、世界でも有数の売り上げを誇る広告代理店として君臨しているが、利益追求型の企業風土は一方で負の財産も残すこととなった。
1991年に新人社員が過労自殺した「電通事件」は、当時の産業保健のマイルストーンともされる事案で、その後、全国の企業の労働環境の改善のきっかけとなった。
しかしながら、肝心の電通の企業体質は変わらなかったと見え、2015年に再び電通の女性新人職員が過労自殺するという、「第二電通事件」とでも呼ぶべき事案が発生してしまい、その後の電通の対策の有効性に注目が集まっている。
まあ、40年も前の自分の新人時代を振り返ると電通よりももっと過酷な労働環境だったけど、幸いなことにハラスメントとかがなかったので何とか切れ抜けられた・・・なんてことを思い出しながら北からの秋風に抗って鹿児島本線沿いに北上し、
小川、松橋を抜け、国道3号線、ウキウキロード、県道182号線、加勢川沿いの道を走り、中の瀬橋からは朝来た道を帰った。
本日の走行距離:73.1㎞