くまもと自転車紀行

熊本市およびその周辺を走行した記録や装備・メンテなど、自転車にまつわることがらを中心としたブログです

「湯の口ため池」探訪

朝、5時半頃にクロモリロードバイクで出発し、北バイパスから日田街道に降りて少し北上し県道37号線へ左折し、すこし走って高速沿いの道に入り、さらに北上。

今朝は晴れの予報だったのに金峰山の山々も山頂付近は雲に覆われている。

小野の泉水公園を経由して

小野川沿い、合志川沿いを走り、

中川橋で菊池川を渡って右折し、迫間川沿い、上内田川沿いを走り、「水辺プラザかもと」で小休止。

さらに上内田川沿いを北上し、

大きな六地蔵や

大きな宝篋印塔が

遺る川西地区や、その北の長谷地区を散策後、道を戻って一本松公園を経由して蒲生池(旧・湯の口ため池)へ。

その昔、山鹿市三玉の蒲生地区には大きな川がないため、日照りの年には米が獲れず、村人は大変困っていた。

この地区の惣庄屋を兼ねた代官として赴任してきた32歳の遠山弥二兵衛(やじべえ)(1823~1907)は、そのような地区の村人たちを救うために、谷状の地形の出口に堤防を築いて、大きなため池をつくることを決意し、村人たちと話し合い、藩に働きかけて資金を調達し、何とか工事にこぎつけた。

晩年の弥二兵衛

ため池への水は、およそ3㎞も離れた上内田川から引かねばならず、

ため池へ取水する長谷堰

 

ため池への水路

その間に3ヶ所、計630mのトンネル掘削が必要とされる難工事であった。加えて、ため池の膨大な水圧に耐える長さ160mの堅固な堤防が必要であった。

前任地が干拓事業の盛んな八代郡であった弥二兵衛は、堤防の建設に必要な大石の取り扱いに長けた八代郡の石工を呼び寄せて石工工事の責任者とした。そして弥二兵衛自身も、どんな天候の時も現場に立ち、作業に就く者たちを叱咤激励した。

幾多の苦難を乗り越えて、着手2年後の1857年には、満水時に50万トンの貯水量を誇る熊本県下最大級(東西530m、南北220m、堤防の高さ30m)のため池が完成した。

村人は深く感謝の意を表し、弥ニ兵衛を祀る「遠山神社」を堤防の脇に建てた。

その後も、弥二兵衛は荒れ地の開墾や、ため池から水を引く用水路の整備に力を尽くし、新たに水田が500ヘクタール増え、いかなる干ばつにも用水が不足することはなかった。

ため池の完成から2年後、弥ニ兵衛は前任地の八代郡の高田手永に転任となったが、人々は弥ニ兵衛への感謝の意を忘れることはなく、堤防の横に建立された神社を守り、現在でも弥二兵衛の子孫を招いて毎年4月の感謝祭を続けている。

こうして長い間使われてきた湯の口のため池は、やがて堤防の老朽化が進み、漏水が問題となってきた。そこで昭和62年から3年かけて、総工費2億8千万円の改修工事が行われた。この時もこの地域の人々は資金を補助したり、工事中は田植えを控えたりして協力した。

神社の境内には改修記念碑も建てられおり、

この改修の際に不要になった江戸時代の水路に使われた石管なども石碑の土台に展示してあった。

遠山弥二兵衛により築かれて150年ほど経つ、このため池は、現在でも、地区になくてはならないものとして大切に使われている。

・・・そうこうしている間に、北から灰色の雲が迫って来て、気づけば不動岩も見えなくなり、

ポツリポツリと落ちて来たので、逃げるように蒲生の集落を抜けて台地を南へ下り、来民商店街を経由してさらに南下し、中川橋を渡って朝来た道に入り、

路傍で今が盛りのホシアサガオや

マメアサガオを眺めながら帰った。

本日の走行距離:73.2㎞