新型コロナウイルス感染流行当初から行きつけのインド食堂のテイクアウトを頻回に利用しているが、マスターの奥さんがパックの蓋にに時々絵を描いてくれて、味気のないフードパックに花を添えてくれる。
そしたら、つい先日の蓋には「津袋の扇形分水」についての質問が・・・。
その扇形分水は何度か行っているが、あまり詳しくないのでネットで勉強して実地研修に出かけた。 坪井川沿いの道を北上し、小野川沿いの道を走り、合志川沿い、
迫間川沿い、内田川沿いと進み、「水辺プラザかもと」を経由して
上内田川沿いを北上し、目指す「扇形分水」に到着。
この分水は津袋橋の
少し下手にある津袋堰から
取水した水を決まった比率で二手に分けているのだが、
その一方の先はやや複雑な構造になっているものの、結局のところ上内田川に戻しているような水路となっている。
そしてここから御宇田(みうた)方面および来民(くたみ)方面に水を送る「御宇田井手」が始まる。
この「御宇田井手」は、開発のための水利事業としては、熊本県下最古のものといわれている用水路である。 今から1000年以上遡る延長3年(925年)、伊勢の国より下向して御宇田の地に居を構えた藤原光重は、在名の「御宇田」を名乗り、この地方の開発に尽くしたという。 津袋の扇形分水から現在ではコンクリートの水路となっている「御宇田井手」を末梢の方に辿って行った。
次の高橋の集落では
井手は二手に別れ、
その一方を辿って
その先にある御宇田の集落を訪ねた。
現状では城館の遺構は確認できないものの、当初は集落に平城があり、
後に蒲生台地の端の山城があったと言う。
この地の開発に尽力した光重の遺徳に感謝して、集落では現在でも「殿様まつり」が開催されており、集落の方々の意識の高さが伺える。
ところで、津袋の扇形分水だけど、水音を聴きながら佇んでいると、何だかすごく癒される。
川のせせらぎもそうだけど、さざ波の打ち寄せる音なども心が洗われる感じがする。 これはひょっとして、何億年か前の我々の祖先が海や川の生活から陸上へと進化する際に、水際で過ごした時の記憶がDNAの中に刻み込まれているからかもしれない・・・などと考えながら「ゆうかファミリーロード」に入って、分田橋を経由して合志川沿いの道に入り、後は早朝に来た道を帰った。
本日の走行距離:68.3㎞