今日も気温が低いのでちょっとだけサイクリング。甲佐町の利水・水害関係の史跡を見に行くことにする。 いつものように出水ふれあい通りを経由して中ノ瀬橋、めど町橋を渡って
緑川沿いの道をひたすら走って甲佐へ。
まずは東寒野地区に進んで鵜ノ瀬堰へ。
慶長13年(1608)に完成した、清正公の緑川治水工事の一つで、堰の位置や形を夢のお告げで鵜が教えたということから、この名が付いたと言われている。
この堰から取水する大井手用水は、鮎やなを通って
町内を貫流し,
灌漑用水,生活用水として永く利用されている。
この他にも緑川と津留川の合流地点では、
加藤清正が流れを安定させるために川の中に設けた「沈み塘」を見学。
県立甲佐高等学校の東、長楽山の一角にある岩鼻神社は、加藤清正公の緑川治水工事の偉業を後世に伝えようと寛永元年(1624)に建てられたもので地元の人たちはこの神社のことを「清正公(せいしょこ)さん」と親しみをもって呼んでいるそうな。
一方で甲佐町は梅雨時、緑川の氾濫によって度重なる水害を経験しているが、中でも明治45年(1912)7月13日の大洪水は、最大級の災害で、鵜ノ瀬堰はもちろん堤防も各所が決壊して、人家の流失、水田の荒廃等を極めた。下横田地区に立つ猿田彦大明神の
台座には、
その時の様子が克明に彫られている。
この猿田彦大明神の石碑から北へ100mほど進んだ小鶴地区に御崎(みさき)大明神がある。
地区の古老の話では、「明治45年の大洪水が起こり鵜ノ瀬堰をはじめ各所堤防が決壊し、水崎大明神がここ小鶴に漂着した。この大明神を『御崎大明神』と改め、お堂を立てて祀った」のだと。
この他にも近くの九折(つづら)地区にその時の大洪水で流れ着いた六地蔵石幢(せきどう)が建っている、とのことで探したが見つからず、近くにいたおばちゃんに聞いたら、その六地蔵の在り処はご存じなかったけど、別の真新しい六地蔵の石幢があるのを教えてくれた。
甲佐からは国道443号線、県道38号線を走っていると、後方からミョーなローディーが追っかけてきたぁと思ったら、ランドヌールのN家さんだった!!
何でも、会社の先輩が井戸江峡でグランピングをしているのを訪ねて行こうとしたら、「季節にそぐった格好をして来い」と言われ、トナカイのぬいぐるみなんだそうだ。 甲佐方面へ行くN家さんと別れ、北風に悩まされながら帰った。 本日の走行距離:55.0㎞