くまもと自転車紀行

熊本市およびその周辺を走行した記録や装備・メンテなど、自転車にまつわることがらを中心としたブログです

大津町の史跡巡り

午前6時頃にクロモリロードバイクで出発し、

京塚、健軍自衛隊を経由して秋津川沿いの道に入り、東へ。

これから彼岸花が旬となりそうな木山川沿いを走り、

県道28号線に入り、西原村を経由して大津町へ。

先日、人𠮷球磨地方をサイクリングした際に湯前町の城泉寺の3基の石塔が印象に残った。

これまで川尻の大慈禅寺でも見たことがある、このタイプの石塔が、

大津町の中島集落にもあるとのことなので、訪ねてみた。

ここの地区の北部を流れる白川は

元々集落の南側を流ていた。

その後、平安前期貞観11年(869)夏の大雨で白川も激流のあまり集落の北側に新たな流れが出来て、「中の島」となり、「中島」村と称したと言われている。

中島は旧合志郡に属し、その最も南の地域で、阿蘇氏の所領であった岩坂とは白川を境にして接していた。

室町期~戦国期に旧合志郡を治めた合志氏の支族がここに居て南の勢力に対して守りを固めた。

民家の裏庭的な此の場所は、その一族七代の墓所と伝えられ、今でも数基の石塔が建っている。

もうひとつ史跡をハントをしに北西に1㎞ほど離れた灰塚集落へ。

四方遠望(白川北岸の平野)の此の地では寛政以後、豊作と息災を祈って密教系の僧侶により護摩木を焚いて読経する祈祷が行われた。その灰を壇の跡に収めて祠を建てたのが、「灰塚」の由来となっている。

集落の北西に護摩祈祷をした際の壇跡の石碑が建っている。

また、ここ灰塚は、地下水が出ず、飲用水には大津方面からの流水を使うなど、飲料水の確保が大変むずかしい場所で、大正10(1921)年に熊本県の東部地域で伝染病が流行した時は、灰塚でもその病気に罹って多くの集落民が命を落とした。

 大正11年に熊本県水道工事補助規定が発布され、灰塚では、この規定に基づく県の補助金を受けて、同12(1923)年1月に工事を開始。灰塚から北へ約2㎞のところにある大津町室の松古閑水源から1.2インチ(=約3.05センチメートル)の鉄管を敷設した。

熊本県下では最初にできた鉄管水道だった。

この石造貯水槽に入れられた150石(27キロリットル)の水は灰塚地区の各戸の蛇口へと配水されたという。

大津町の集落の歴史に触れた後は、県道207号線を西へ走り、県道337号線に入り、北バイパスに上がって帰った。

本日の走行距離:47.0㎞