くまもと自転車紀行

熊本市およびその周辺を走行した記録や装備・メンテなど、自転車にまつわることがらを中心としたブログです

まあるく収める

山鹿市鹿本町に行く用事があったので、車にクロモリロードバイクを積んで、用事を済ませ、「水辺プラザかもと」に車を置き、上内田川沿いを気分よくペダルを漕いで、

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御宇田(みうた)堰へ。

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県下で最古、1000年以上の長きにわたって住民たちに守られてきた御宇田井手の、

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堰の横には、取った水の一部は御宇田井手へ送り、一部を川へと戻す設備「分水工」が造ってある。

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我々人類は洋の東西を問わず古来より貴重な水を巡って争って来た。 「ライバル(rival)」の語源を遡ると「川(river)」に辿り着くのだそうだ。 特に水稲文化を営んできた日本では水に纏わる争いが各地で絶えなかった。

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と言うのも、通常の水路では液体の特性で中央部の流量が多く、流れる水を1:1に分けるのはまだしも、1:2に分配したり、3つ以上に均等に分けたりするのは非常に難しく、しかも見た目で住民に納得させるのはさらに困難で、争いの種になることも多かった。

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この問題を解決したのが「円筒(円形)分水工」である。

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(大分県竹田市の「音無井路(おとなしいろ)円形分水」)

明治末期、農商務省の技師だった可知寛一氏は川の水をサイフォンの原理で円筒形の水槽の中心に湧き出させ、その外側に一定の配分で誘導する「円筒(円形)分水工」を考え出した。

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円の特性を利用して水の適正な分配を「見える化」したのだ。 以後、この分水工は各地に造られ、長年の水の争いを文字通り「丸く収める」のに貢献してきた。

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(昨夜の中秋の名月を運良くパチリ)

熊本では山都町の「小笹の円形分水」が知られている。

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この分水工により、笹原川からの取水が、遠方の通潤橋へ七分、近隣の野尻・笹原の集落に三分と分配されている。 一方、ここ御宇田井手では、昭和31年に御宇田堰がコンクリートの固定堰となった際に問題になったのが上内田川の流水の配分で、下流との協議の末、御宇田井手に七分、上内田川の下流に三分を流すことに決まってコンクリート製の分水工が造られた。

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その構造であるが、前述の円筒(円形)分水工とは違い、取水された水が、広い扇形の溢流堰に入ることで堰から比較的均等に流れ落ちるようになり、その流れ落ちる水が分水堰によって7:3に分配されている。

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歴史的には円筒(円形)分水の原型とでも言うべき、この分水工は分類上は一般的に「扇形分水」と呼ばれている。 そのため当ブログでは御宇田井手の分水工を「扇形分水」と紹介してきたが、山鹿市議会が発行している「やまが市議会だより」平成29年8月1日版の4頁には、写真付きで、何と「円形分水」と紹介してある。 「・・・ということは、御宇田井手の分水工の正式名称が『円形分水』なのか?」と、八方手を尽くして調べてみたところ、御宇田井手を長年に渡り管理してこられた御宇田地区が発行した「ふるさと御宇田の郷土史」ではこの分水工のことを「円型分水塔」と記載してあり、どうやらこれが正式名称(あるいは通称)らしいことが判明。

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よって、管理をしてきておられる御宇田地区の方々に敬意を表して「円型分水塔」と紹介すべきところではあるけれど、やっぱり全国標準的な分類上の名称である「扇形分水」の方を当ブログでは使用する所存ですので、どうぞご理解のほどを・・・。

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本日の走行距離:10㎞くらい

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