朝7時過ぎにクロモリロードバイクで出発し、出水ふれあい通りから中の瀬橋、めど町橋を渡り、
国道266号線を南下し、県道313号線、312号線を走り、小川を抜けて道の駅竜北で小休止。
田舎道を走って氷川町を抜け、
鏡町周辺の「不知火干拓地」の史跡巡りにやっていた。 八代沿岸地域は日本三大急流の一つでもある球磨川と氷川、砂川などの小河川が不知火海に注ぎ、その砂流によって肥沃な三角州が形成され、地形的に干拓に適した地であったため、清正以降の380年の間に28カ所が干拓され、今ではこの八代平野の約80%が干拓地となっている。
数多くの人々がこの「不知火干拓地」の事業に参加してきたが、その中でも名を残している者の一人が鹿子木量平である。
量平は1753年、その名の示唆する通り、飽田郡鹿子木村(現・熊本市北区鹿子木町)の、鹿子木寂心を祖先に持つ庄屋宅に生まれ、1773年に父の後を継いで庄屋となった。 1783年の天明の飢饉や1792年の寛政の大津波の際には民衆の救済に力を尽くし、民政の才能を認められて杉島手永(富合町、城南町など)の惣庄屋を経て、1804年には野津手永(竜北町、鏡町など)の惣庄屋に任命された。 着任当時の野津手永は農地に乏しく貧しいところであったため、民を潤すために量平は干拓による新田開発に着手した。
量平は、工事に臨む際、土木工事・新田開発の先駆者として加藤清正の神霊に祈った。 干拓工事には多くの困難が待ち受けていたが、百町新地、四百町新地、七百町新地、と17年間で次々と新田を開発した。
八代市鏡支所の玄関には当時の干拓事業の作業風景を再現した有田焼が壁画がある。
工事の完了後、量平は加藤清正霊の加護に報いるため、清正公を祀る本妙寺浄池廟より分霊を勧請し、新しい地域の守護神として神殿を創建した。
そこから約1㎞ほど南西へ走った。大鞘(おざや)川に架かる「大鞘樋門群」は、量平の新田開発の際の遺構である。
また、樋門の間の空き地には干拓事業に従事した人々が歌った「大鞘節」の発祥地の碑。
歌詞は8番まであり、歌詞の内容は、飲み水がないこと、仕事のきつさ、作業の進め方、「お菊」と「だいばどん」との恋などを表しているとのこと。
量平は天保12年(1841年)、89歳で亡くなった。 その墓は彼が手掛けた3つの新地が交わる場所にたてられた。そして量平の右腕となってともに干拓のために働いた四男の謙之助の墓も量平の墓の向かって左側に建てられている。
さらに量平の偉業をたたえるために、没後70年にあたる明治43年(1910年)、量平らの墓の脇に神社(文政神社)を建て、量平を祭神として祀った。
帰路は、道の駅竜北からはひたすら国道3号線を北上。ところが、松橋手前でパンク!ちょうど豊福小学校の前だったので、学校の玄関先でチューブの交換。
さらに国道3号線で宇土に入り、JR宇土駅前の、みきたかさんお薦めの「NICO」でランチしようと思ったら「定休日」で、「それなら・・・」と富合の「鮪匠とろや」へ行ったら行列で、仕方がないので、ウキウキロードを走って、
熊本市に入り、いつもの「インド食堂」でランチして帰った。
本日の走行距離:90.4㎞