先日買い出しに益城町へ行った際に貰ったパンフレットを片手に、
朝7時過ぎにクロモリロードバイクでポタリングに出かける。
江津湖畔の道に入り、
水前寺津湖公園の広木地区を抜けて、
秋津川沿いの道を東へ走り、
ゆっくりと赤井、砥川の集落を散策した。
200年ほど前まで益城町砥川の集落(旧・鯰手永の砥川村)には岩戸川が流れているものの水量が少なく、村では溜池を造って雨水を貯めていたが、
日照りになるとたちまち水不足になって作物は枯れ、村民は雨乞いをするしかなく、貧困に喘いでいた。
寛政3年(1791年)、下砥川村の庄屋に任命された32歳の富田茂七は村の惨状を救うために北東に2㎞離れた赤井の「そうめん滝」から水を引くことを思い立った。
ところが、水源とする「そうめん滝」と砥川村の高低差を比べると、砥川村の方が高く、これでは水は引けない。
そこで富田茂七は、そうめん滝の周りに堤防を築いて溜池とし、
水位を上げることにより、砥川村へ水を引く計画を立てた。
しかし上役の惣庄屋や郡代の許可がなかなか出ず、やっと始めた最初の工事が失敗。さらに再工事の申請が何度も何度も却下されたり、陰口を叩かれたりもした。しかし用水路の構造に工夫するなど、
約10年の苦闘の結果、長さ約3350mの用水路が完成し寛政13年(1801年)3月19日に疎水式が行われた。
茂七が命をかけた工事により、
赤井のそうめん滝に貯められた水は、
苦心した水路を流れ、
約105haもの田畑が潤され、現在の砥川地区は一面に美しい田畑が広がった。
この功績を称え大正14(1925)年に富田茂七彰徳碑が建立され、
疎水式をおこなった3月19日には今でも「水神祭」がおこなわれている。
石碑の上部には熊本出身の総理大臣・清浦奎吾筆の「既澤(きたく)」の文字が浮き彫りにされている。
「既澤」の出典は司馬遷の「史記」で、用水路ができて荒れ地が美田へと変わる基盤になったことを意味しており、富田茂七の功に対する村民の感謝の意を代弁している。
砥川の集落を後にして、県道235号線を北へ走り、広安からは左折して木山往還を走って帰った。
本日の走行距離:30.6㎞