(かつての四賢婦人記念館)
昨年3月に新築公開されている。(四賢婦人を輩出した矢嶋家住宅を復元している)
近代日本における女子教育や婦人解放運動に尽力し、今日の男女共同参画社会の礎を築いた竹崎順子・徳富久子・横井つせ子・矢嶋楫子は『熊本の猛婦』、あるいは『四賢婦人』と称されている。
『四賢婦人』を輩出した矢嶋家は益城町一帯を治める庄屋で、彼女らを産み育てた母・鶴子は革新的な女性で当時、女性には教育はいらないとされていたが、近所の寺子屋に通わせ、自筆の百人一首、古今の序、三十六歌仙などを巻物にして与えるなどして姉妹を教育した。
七人の姉妹の中で、四女の久子は徳富家に嫁ぎ、蘇峰・蘆花兄弟を厳しく育て、五女のつせ子は横井小楠の後妻として嫁ぎ、共に良妻賢母として生きつつ、女性教育の必要性を感じ、他の姉妹の活動を支えた。
三女の順子は横井小楠の弟子である竹崎律次郎に嫁ぎ、夫を支え、夫の死去後、キリスト教に入信し洗礼を受けた。
女子教育の必要性を提唱し明治22(1889)年『熊本女学校』を創設。多くの人材を世に送り出した。
熊本女子校はその後、「大江女子高」、「フェイス女学院高」と移転改名し、2009年には開新高校に合併され廃校となった。
六女のかつは、もとより勝気で秘めたる情熱の持ち主で25才の時に富豪の林家に後妻として嫁いだが10年後に離婚。上京を機に「楫子(かじこ)」と改名。妻子持ちの書生の子を産み育てるなど、波乱の人生を生きた。後年はキリスト教に入信すると教育者として、そして婦人の人権を高める活動を国内外に行い、まだ女性が一個の人間として尊重されることのなかった時代に、婦人福祉のためにその一生を捧げた。(津森小学校に建つ顕彰碑)
「四賢婦人記念館」の見学の後は、布田川断層が横切る潮井水源に立ち寄り、さらには杉堂の集落にある「矢嶋家屋敷跡」や「矢嶋家墓地」を見て廻った。
帰路は木山川沿い、秋津川沿いを走るつもりだったけど、道路工事で寸断されているため途中から県道28号線と木山往還を走って帰った。
本日の走行距離:47.3㎞