くまもと自転車紀行

熊本市およびその周辺を走行した記録や装備・メンテなど、自転車にまつわることがらを中心としたブログです

「肥後の名君」ポタリング

午後から紅葉見物がてらにクロモリロードバイクで島崎の「三賢堂」へ。

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三賢堂は、熊本市の政治家・安達謙蔵(1864年11月22日~ 1948年8月2日)が

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熊本市民の精神修養の場として昭和11(1936)年に建立した円筒二重層の鉄筋コンクリートのお堂である。

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(事前に熊本市文化振興課に電話すると鍵を開けておいてくれます)

その内部には肥後の三賢人として座像が安置されている。

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菊池武時、

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加藤清正、

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そして、今回スポットを当てる、細川重賢(ほそかわしげかた)である。

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肥後熊本藩6代藩主の細川重賢は財政難に瀕していた熊本藩を立て直したことで、紀州藩第9代藩主・徳川治貞と「紀州の麒麟、肥後の鳳凰」と並び賞される名君であった。

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(出水神社の宝物殿にある細川重賢を描いた掛け軸)

藩の財政は、初代・忠利、2代・光尚までは健全であったものの、3代・綱利は父親の早逝により幼くして藩主となり、折からの元禄時代に象徴されるバブリーな風潮の上に、「五十四万石」の格式を保つためにも参勤交代やら江戸屋敷の費用やらで浪費が嵩み、綱利の統治した60年余りの内に、一気に赤字転落となってしまった。

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続く4代・宣紀、5代宗孝の時代には天災が続き、米を中心とする農作物の生産高は激減。加えて、年貢の取り立てを厳しくし、違反する者は厳しく罰するような刑法を取り入れたため、

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農民のモチベーションはさらに低下し、農地を捨て去るものが急増した。

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しかも、米の不作を補うような産業もなかったため、財政赤字は膨らみ、約20万両の負債を抱えた。さらには、藩が借金を踏み倒すような行動に出たためにメインバンクであった、大阪の両替商の鴻池は融資を停止。

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(このお方とは縁も所縁もないそうです)

そんな危機的状況に、重賢の兄であった第5代・宗孝が江戸城で、人違いで切り殺されるという事件が勃発。 宗孝にはまだ嫡子がいなかったために、本来なら藩主になるはずのない弟の重賢に「藩主」という大役が廻って来た。 そんな重賢が途方に暮れながらも、まず手をつけたのは、リストラであった。

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配下の主だった武士たちに財政に関する意見を聞き、その結果、数年かけて「奉行」の役職を一新した。この際、君主である重賢に対してでも臆することなく率直に進言することのできる行動力のある家臣を配置した。藩士達の給与体系も見直し、人事考課も刷新した。早急な改革に予想された古参の家臣の謀反の動きにも機敏に対応した。 同時に行ったのが融資をしてくれるようなメインバンクを新たに捜すことで、当時、新興の大阪商人・「加島屋」と交渉し、藩の年貢を一手に引き受けることを条件に資金を得ることに成功した。

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(NHKの朝ドラ「あさが来た」の舞台は「加野屋」だったが、そのモデルは「加島屋」:写真はネットより拝借)

次に行ったのが倹約の奨励であった。

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(「ノマド的節約術」より画像引用)

財政的に瀕死の熊本藩の舵取りをすることになった重賢は、生まれ育った江戸屋敷では嫡男ではない者に割り当てられた部屋住みの質素な生活が染みついており、藩主となった後も特権に固執することなく、十数年に及んだ財政改革の後も、変わらず質素な生活を続けた。 藩の財政の約三割に及んだ江戸藩邸の費用に限度額を設定し、参勤交代の行列も簡素化した。

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(本文とは関係ありません)

折から起こった球磨川流域の大水害の際には幕府からの無償の資金援助を引き出し、八代・萩原堤の全面補修工事を行ったりした。

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また、天候に影響を受けやすい米作中心の農業からの脱却を目指して、楮(コウゾ)、櫨(ハゼ)、桑を各地に植え、

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和紙、蝋燭、養蚕の振興に努めた。

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(三加和では今も和紙が名産品)
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(日吉神社近くの小さな櫨蝋燭工房)

一方、重賢は、「司法改革」にも力を入れた。それまでの熊本藩の刑法は、前述のように、恐怖心で領民をコントロールしようと、次第に厳しくなってきており、藩を捨てる者が出始め、逆効果となっていた。多くの領民がいてこそ、藩が存続することができると考えていた重賢は、刑を軽くすることによって、「人口流出」を抑えることに努力した。 そして、重賢が最も重要視した改革が、「教育改革」である。改革を継続するためには、『人材育成』が重要であることを強く認識していた重賢は、改革の柱に「学校建設」を置いた。それが、藩校「時習館(じしゅうかん)」と

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(二の丸公園)

医学校「再春館(さいしゅんかん)」である。

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(開設地の二本木から移設した山崎町のRKKの近くの案内板)

時習館は、漢学者「秋山玉山(ぎょくざん)」を初代教授に迎え、

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多くの名のある指導者のもとで、文武両道の教育を行った。学科は漢字、習字、修学、音楽、馬術、居合、長刀、遊泳など実に多彩で、教科書には四書五経、とくに論語を当時の大切な教科書として用いた。 医学校「再春館」は、

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(こちらの製薬所とは縁も所縁もございません)

設立当初、その人材育成について書いた「肥後医育」で、「国中の民をして、若死、疫病死の憂いをなからしむ。その恵みや厚し」と、熊本藩の一人ひとりが健康に長生きすることができるようになる恩恵は、藩にとって計り知れないと述べている。初代館長には名医・村井見朴(けんぼく)が就任した。

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(残念ながら万日山墓地にあるお墓は震災では倒壊)

ちなみに、重賢は医学校に対する構想も早くから持ち合わせていたことも伝えられており、参勤交代の移動の時間や労力さえ無駄にしないよう、移動の途中、薬草になる可能性がないか、植物を採取させ、持ち帰りながら薬草の研究に努めていたことが知られている。また、そうした重賢の研究や努力は、再春館の「蕃滋園(ばんじえん)」という薬草園に集約され、明治維新まで存続。

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(肥後銀行子飼橋支店周辺にあった「薬園」の名残)

その後、蕃滋園は個人の所有を経て、第五高等学校に寄贈され、一部は現在の熊本大薬学部の薬草園に受け継がれている。

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このような薬草のエピソードだけに限らず、重賢は、博物学全般に強く興味があり、細川家に伝来する歴史資料や美術品の文化財を収蔵する「永青文庫」には植物をはじめ、鳥、虫など多くの図譜集が残されている。 一方、医学教育の「再春館」は明治維新後、閉鎖されるが、重賢の想いは、「古城医学校」、

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(第一高校校門横の「古城医学校跡」の石碑)

「私立熊本医学校」、

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(城東町のマンションの一角)

「熊本医大」などを経て、熊本大学医学部へと受け継がれている。 ちなみに、本日の参考図書はこちら・・・

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(途中、3回くらい泣いてしまった)

本日の走行距離:21.4㎞

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