くまもと自転車紀行

熊本市およびその周辺を走行した記録や装備・メンテなど、自転車にまつわることがらを中心としたブログです

明治天皇の足跡めぐり

元号が令和に代わって、ちょっとショックだったのは遂に天皇陛下が自分より年下になってしまった、と言うこと。 そんな令和天皇の4代前の明治天皇が熊本に残した足跡が市内のあちこちにあるので、ちょっくら廻って来た。

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明治天皇が熊本へお越しになったのは明治5年(1872)と明治35年(1902)の2回。

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最初の巡幸は明治5年の西国・九州巡幸の折で、この時、熊本藩が明治新政府に献上した軍艦「龍驤(りゅうじょう)」が御召鑑として使われ、6月18日に長崎から有明海に入り小島沖に到着された。

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遠浅のため沖合から小舟に乗り換えて上陸するまで手間取り、上陸されたのは夜遅かったという。

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(左手が小島の船着場)

上陸地の近くにある小島小学校の正門横には御上陸を記念して「明治天皇臨幸記念碑」が建てられている。

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そこから50mほど進んだところの「行在所(あんざいしょ:宿泊所)」となったのは旧藩時代、細川家の御旅所となっていた米村家だった。

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その際、随行した西郷隆盛は上陸の際の軍関係者の不手際に怒って、行在所で供されたスイカを庭の石に投げつけて割ったというエピソードが残っている。 また、町の主だった名家や寺は随行者の宿泊所として使れ、古い町並みのあちこちに案内板が貼ってある。

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(西郷隆盛の宿泊所)
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翌19日の行在所となったのが新町の「会輔堂」。旧藩時代は御客屋として肥後藩の迎賓館だった所である。

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軍艦奉行であった勝海舟と坂本龍馬が横井小楠の教えを請うために来熊した際、宿泊した施設で、現在は一新幼稚園になっている。

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明治天皇は、西郷隆盛とその弟・従道を従え、ここに2泊しておられ、その間、医学校、洋学校、鎮西鎮台、水前寺成趣園などを視察している。 また、肥後の古器物、古書、古刀剣をご覧になったり、山鹿灯篭などの献上を受けられたりして過ごされた。

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(園庭に記念碑が建っている)

その後、二本木の『白川県庁」に立ち寄り、夕刻に鹿児島に向けて出発した。

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(二本木の古町公園に残る記念碑)

熊本県庁は当初、旧・花畑邸に置かれたがその後、一旦、熊本城二の丸に移った後、明治5年6月に二本木に新築移転し、この時、県名も「白川県」に改められ、『白川県庁」として発足していた。 明治6年に八代県が白川県に統合され、手狭になり、かつこの地は度々水害に悩まされたため、明治8年、古城に移転し、翌年、県名も再び「熊本県」と改称さられた。

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2回目の行幸は明治35年、熊本で陸軍特別大演習が行われた際。 この時は11月12日山口から鉄道で来熊され、熊本駅から熊本城本丸の天守台の東側にあった第六師団(陸軍)の大本営を行在所として入られた。 当時、下馬橋(げばばし)から城内に入る南坂(みなみざか)は傾斜が急で、曲折も多かったので陸軍は、この坂を改修して傾斜を緩やかにし、

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さらに、坪井川に、新しく橋をかけて天皇の御馬車が通れるようにした。このとき旧来の下馬橋は撤去され、

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この新しい橋を「行幸(みゆき)橋」、

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あたらしい坂を「行幸坂」と名づけた。

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(現在、御幸坂は全面交通止)

明治35年11月13日、陸軍特別大演習が当時の田部村において開催され、明治天皇は約1時間演習を統監された。演習終了後、円形に整列した将校連の中央に立って講評された所には現在、「御野立所」の記念碑が建てられている。

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さてその帰り道、明治天皇は西無田付近で沿道の奉迎者の中に婦人に背負われた老婆をご覧になり、早速、清浦法相(熊本県出身で、後の内閣総理大臣)

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に命じて調べさせられたところ、同村、田中茂二太の母ヤヲ(88歳)と娘ジュミ(55歳)と分かった。

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(御幸小学校のHPより)

天皇は、老婆の健康と娘の孝順をたたえるために、県知事を自宅に遣わして、お見舞いのことばとお菓子を賜った。 このことに感激した地元部田村では、上村校長の提案で、御幸村と村名を改称することを村会で議決、当局に申請した。翌年3月に内務省は官報をもって正式に告示した。明治36年3月12日「御幸村」と改称するとともに明治36年1月1日本校名を「御幸小学校」と変更した。 ・・・と、こんな感じで地元の歴史に触れていたら、

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気温がグングンと上がって来たので東バイパスをビャンビャン走って帰った。 本日の走行距離:45.5㎞

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