土曜日午前中の仕事を早めに切り上げて、クロモリロードバイクでちょっくら散歩。 熊本市北区の職場から県道37号線をちょっと北へ行くとそこは合志市。
ここ合志市にある石碑のひとつに「禁酒記念碑」というのがあって、
以前からサイクリングの途中に見かける度に「あんまり見ないタイプの記念碑だけど、誰が何のために建てたんだろう?」と思っていたら、合志市歴史資料館の館長さんによれば、「禁酒」の碑は全国でもここ合志市と石川県津幡町の2カ所にしかない、とのこと。
地元紙の記事によれば、石碑の建立に影響を与えたのは、明治25年に、農村子弟の教育を目的に私塾「合志義塾」
を開設た平田一十(いちじゅう)と工藤左一(さいち)。
平田は西洋文化の影響を深く受けた「大江義塾」の出身で、子弟同行・男女共学・学団といった、当時は先進的でユニークな取り組みを行い、閉校した昭和25年までに約6500人もの卒業生を輩出した。
開校から十数年経った明治37年の日露戦争の結果、世界における日本の地位は上がったものの、戦勝気分により浮かれた世相は一方で社会規律の悪化を来した。この風潮を戒めるため、明治天皇が国民に勤勉や倹約などを説いた「戊申詔書」を受け、平田と工藤は青年団組織を発足。村民らに禁酒を勧め、石碑を建て地域の規律と節約意識を高めた。 野々島の、その名も「東区記念碑前」のバス停
の所にあるのは「禁酒菓記念之碑」で、
碑文には「15~40歳までの青年の飲酒を禁じ、菓子を食することを禁じる」とある。
もっとも、その頃の「お菓子」とはもっぱら落雁(らくがん)を指しているとのこと。 そう言えば、最近この「らくがん」というものをまったく目にしなくなったなあ。 まあ、わたしゃお酒はまったくダメなので「禁酒」は一向にかまわんけれど、「禁菓」はたまらんなぁ、と思いながら県道30号線を西へ走り、回り道して植木町にある「滴水(たるみず)のイチョウ」の色付き具合をチェックしにいったけど、
まだまだ一部で色付き始めた程度。
その後は楠野を経由して坪井川沿いの道を南下して国道3号線沿いから三軒町通りを経由し子飼から白川沿いの道を走って帰った。
本日の走行距離:朝の通勤も含めて約36㎞