くまもと自転車紀行

熊本市およびその周辺を走行した記録や装備・メンテなど、自転車にまつわることがらを中心としたブログです

坪井川歴史散策

折角の好天なので、どこぞへロングライドに行きたいところだけど、家内の実家のある高橋町へ行かねばならない用事ができたので、ついでに坪井川を河口から街中まで辿る事にする。 河口までは金峰山を抜けて行こうと言う話を、昨日職場でしていたところ、同僚のピナ朋が便乗。 と言う訳で、午前7時半に鍛冶屋のセブンイレブンで待ち合わせ、

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(筋向かいの旧・第一銀行ビル)

唐人町、横手町を経由して島崎から鎌研坂を上り峠の茶屋でひと休み。

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ピナ朋はフルマラソンのシーズンが終了し、トレイルランのシーズンに突入したらしいが、先週末のえびのでの大会で30㎞ほど険しい山の中を走ってあちこち痛めたらしく、今日は回復のための自転車練習とのこと。

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さるすべり方面へ少し走って右折し、すこし下って左折して一ノ岳の北西の斜面を走って、岩戸の里から上がって来た道に合流し、坂を上って松尾町平山から国道501号線へ坂を下り、百貫港へ。

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坪井川の河口に位置するこの港の歴史は古く、加藤清正が入国後築いたとされ、細川藩時代から明治の初めにかけては、熊本の外港として賑わいを見せていた。

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(近くの百貫灯台)

また、大正5年から昭和19年までは熊本市田崎町から同港まで電車が走り、鮮魚介・木材雑貨などの交易上の重要な港となっていたが、坪井川の河口港であるが故に、度々の洪水により航路・泊地が埋没したため、昭和35年より港湾の整備に着手し、現在では、熊本都市圏に必要とする砂・砂利を主に取り扱っている。

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坪井川沿いの国道501号線を上流へ遡って、最初の橋を渡り、下小島の船着場に到着。

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1872(明治5)年、西国巡幸の明治天皇が艀(はしけ)でここに上陸。

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(小島小学校の校門に立つ「明治天皇臨幸碑」)

この時、陛下が宿泊した米村家の住宅が残されいる。

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(明治天皇の行幸の宿泊施設が保存されているのは全国でも珍しいとのこと)

当時陸軍少尉だった西郷隆盛や、

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その弟・従道(つぐみち)も随行してこの地を訪れた。

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「小島」の起源となった「御坊山」を見学後、

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(当時は海に浮かぶ小さい島で「小島」と呼ばれていた)

白川沿いの道を帰るピナ朋と小島で別れ、高橋町へ。

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高橋町に生まれ育った家内と結婚するまでは、高橋稲荷が有名なくらいの

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地味な町と思っていたが、高橋町は、実は由緒ある町だとさ。 当時は高橋町は現在の坪井川(当時は井芹川)の河口に位置し、加藤清正が入国して坪井川を開削したときから本格的な河口港として整備された。加藤家改易後入国した細川忠利は、熊本、高瀬、川尻、八代と並び、高橋を、「肥後五ヶ町」のひとつと制定した。こうして高橋は城下と海路を結ぶ重要な河口港として発展した。昭和45年頃頃までは高橋の坪井川河畔には白壁の土蔵が並んでいて船着場も残っていたが、河川改修ですべて無くなってしまったらしい。 そんな高橋町で高橋稲荷神社を会場に本日行われていたのが、町おこしイベントの「こんね西祭」。

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約80店舗のマルシェや

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音楽や舞踊のステージ発表が行われ、多くの人で賑わっていた。

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(つい、こちらの方に脚が向いてしまう)

このマルシェに家内の幼馴染がパンや地の野菜を出品するとのことでやってきた。

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そしたら家内の親戚にも遭遇し、「自転車で来ているので・・・」と断っているのに、多量のお土産を依頼されてしまった。

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持参のサコッシュには到底入り切れないので、ハンドル等にぶらさげたりして、その後の速度を落として、坪井川沿いを上流へ。

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(祇園橋際の「おてもやんと永田いね」の像)

「あんたがたどこさ」で有名な「せんばがわ」には「船場橋」が掛けられているが、

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近くの電停の名前は「洗馬橋」なのが謎。

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御幸橋の少し上流の、

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馬具櫓の前に架かっていた橋のところで馬を下りるしきたりがあったため「下馬橋」と呼ばれるようになったと云われている。

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この橋は明治35年の明治天皇の2度目の来熊の際、御幸橋がかけられたため取り壊された。その下馬橋の礎石の一部は、わが母校の校門の門柱として現在でも残っている。

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「たとえ世に知られなくとも社会の礎たれ」との当時の校長の思いが込められているとは、卒業後に知ったが、よく見ると、なかなか味わいのある門柱である。

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その上流の厩橋(うまやばし)

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明治22(1889)年、須戸口門の辺りに石炭火力発電所が建設され、出力12.5ワットの直流発電機2台で周辺に電気を灯し、これが九州の電気事業の草分けとなった。

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(須戸口門の周辺は現在、立入禁止)

かつて坪井川は千葉城跡から北は城東小学校の敷地の南、藤園中学校の敷地の西を流れ、新堀橋の下で現在の県道1号線を横切っていた。

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(「まちあるきの考古学」より)

そこに「錦橋」という橋がかかっており、そこから錦坂を上がると、かつてそこには加藤神社があり、錦坂は参拝客で賑わっていたというが、現在は通行人は疎ら。

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そこから先はかつての坪井川は暗渠となっており、

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寺原で現在の坪井川と繋がる。 そこから数百メートル上流へ進むと、寺原新道沿いに「舟場」のバス停。

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高橋から城下に荷を運んだ平田舟の終着点であったが、当時の様子を偲ばせるものは何も残っていなかった。

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ここで坪井川の歴史めぐりを終了し、インド食堂でランチして帰った。

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本日の走行距離:49.8㎞

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