菊池郡大津町から菊陽町にかけての白川中流域の水田は、阿蘇火砕流の堆積物によって地下水をかん養しやすい地層となっており、熊本市およびその周辺の地下水かん養に重要な役割を果たしている。
そんな白川中流域には、川の水を引き込むための六つの堰と七本の井手(用水路)が造られており、「六堰七井手」と呼ばれている。 今朝は3時間ほどかけて大津から菊陽にかけての六つの堰をクロモリロードバイクで廻った。
白川中流域の最上流部から順に、まずは『畑(はた)井手堰』。
1675年に熊本藩家老の長岡監物が命じて造られた堰。6キロに渡って井手が伸び、白川南岸の大津町・外牧地区や錦野地区の146ヘクタールを潤している。
二番目は『上井手堰』。
この堰からの用水路である上井手は、加藤清正が構想し、忠広が元和4年(1618)に着手し、加藤氏改易後に入国した細川忠利が寛永13年(1636)に工事を再開、綱利の代に坪井川まで完工した。全長は約24km。取水口から合志台地坂下の大津の中心部を縦貫、菊陽町の鉄砲小路の北側で「堀川」と名を変え、合志町豊岡、西合志町須屋を経て、熊本市飛田で坪井川に合流する用水路で白川北岸の農地を広範に潤している。
三番目は瀬田神社のすぐ前にある『下井手堰(瀬田堰)』。
奈良初期に肥後国司阿部乙名が開削した後、埋没して遺跡化したものを加藤清正が天正17年(1579)改修に着手し、慶長3年(1598)竣工、さら忠広が補修し完成した。堰の中央部には阿蘇大明神が蹴飛ばしたとされる兜岩が鎮座している。
大津町の瀬田から陣内、久保田にかけての水田を潤している。
四番目は『迫・玉岡堰』。
白川南岸の迫井手と北岸の玉岡井手の二つの井手に水を送るために造られた堰。最初に造られた年代は不明だが、江戸時代以降、水害などで4回場所を変えて江戸時代の末期に現在の位置に造られた。その後も度重なる水害での被害を受けて現在に至っている。
五番目は『津久礼堰(?)』。
菊陽町の大菊地区~津久礼地区への井手に水を送る堰だが、情報に乏しく、その名前もはっきりしなかった。
ただ、堰の横には水害にまつわると思われるような石碑が立ち並んでおり、歴史を感じさせる。
最後に馬場楠堰
菊陽町馬場楠の白川取水口から熊本市の東海学園前駅近くまで続く約12.4kmの白川南岸を潤す農業用水路。
その途中には、井手に土砂や火山灰が溜まるのを防ぐ「鼻ぐり」や、
県内唯一の琉球式架橋法による井口眼鏡橋など見どころも多い。
六つの堰を廻り終えたころには9時近くになり、玉の汗をかきながら木陰の多い県道145号線を走って帰った。
本日の走行距離:51.5㎞