今年の8月は延期された東京オリンピック・パラリンピックの開催に加え、新型コロナ流行の第5波に、長雨による全国的な被害など色々とあったので、76年前の8月に終わった大戦を振り返る余裕があまりなかった。 そこで、本日は早起きしてクロモリロードバイクで戦跡めぐりに行くことにする。
帝国陸軍の「飛行第六十戦隊」は昭和13年8月に「飛行第六大隊」から分離編成されたもので、大陸の各地を拠点として昭和19年11月までは主に重爆撃機「呑龍」、以降は「飛龍」の編隊による数多くの爆撃作戦を遂行していた。
昭和20年3月には熊本の健軍飛行場に拠点を移して沖縄戦に投入されるようになり、
終戦に至るまで沖縄の敵軍基地への攻撃や友軍への物資投下を行った。
この間、2機の飛龍が不運にも熊本県内に墜落したので、関係する史跡を観に大津町、西原村を廻った。 西原村宮山の
共同墓地の一角に
平成28年熊本地震で倒壊した納骨堂を復旧する際に判別不明になった骨を供養する慰霊碑があり、
その東隣りに建っているのが「八勇士の碑」。
碑文などによると昭和20年の5月16日の午後10時頃、飛行第六十戦隊の福地彦四郎以下計8名が搭乗する重爆撃機「飛龍」が沖縄に侵攻した米軍への通常爆撃後に健軍飛行場に帰還しようとしていたが燃料切れとなり西原村宮山の阿蘇外輪山に墜落した。
搭乗していた8名の御霊を弔うために、十三回忌にあたる昭和32年に西原村宮山の婦人会の尽力で「八勇士の碑」が建立された。
今でも地域の人々の手で大切にされている。 なお、この石碑については所在が分からなかったため、西原村役場に問い合わせたところ、同役場の教育委員会学芸員のK氏が碑の所在を示す遠景地図のほか、
近景地図や碑の写真などを添付したメールを送って下さり、大変助かった。 さて、もう一か所、白川沿いの大津町の
一番東側にある外牧畑地区には共同墓地があり、
その奥に慰霊碑が建てられている。
昭和20年7月5日、第六十戦隊所属の原正陸軍大尉ほか搭乗員7名を乗せた重爆撃機「飛龍」は夜間訓練のため北九州の小倉飛行場を離陸した後、米軍機と遭遇し交戦して大津町外牧の畑地区にある北向山の原生林の中に墜落した。
戦後まもなく搭乗員を荼毘に伏した内牧地区に木製の慰霊碑が建てられたが朽ち果てたため、平成2年に飛行第六十戦隊の有志が墜落地点に近い畑地区に
新たな「慰霊碑」を建立した。
一方、北向山の墜落現場は昭和63年に再調査され、墜落した飛龍の部品約20点を回収した。 これらの部品は現在、「大津町歴史文化伝承館」に保管され、閲覧も可能だけど、残念ながら新型コロナ流行のため大津町の町民以外は入館禁止となっている。
西原村からの帰路、
晩夏の陽射しのもと菊陽町を抜けて
国体道路に入り、西へ走ると、熊本赤十字病院のある一帯は健軍飛行場の滑走路があったところなので、その飛行場を目前に墜落した2機の飛龍の搭乗員の事を考えながらペダルを漕いだ。
本日の走行距離:59.2㎞