一日中雨が降ったり止んだりの予報だったけど、午前10時頃になったら空も少し明るくなってきて、家の前の道も乾いてきたので10時半頃にクロモリロードバイクで宇城市小川町を目指して出発。 出水ふれあい通り経由で画図の田舎道を走り、
中ノ瀬橋、めど町橋を渡り、城南の旧道を走っていたら昼飯時になってきたので、国道沿いの移転した「エベレストキッチン」でランチ(ネパール モモセット950円税別)を堪能。
国道266号線を南下して県道313号線へ左折して、そのまま県道312号線、244号線と走り、小川町の北部田から左折したところの気になっていた案内板。
しかしこの先に案内板がなく、五輪塔らしきものはあったものの、板碑は見つからず。
さらにその100mほど先にも気になっていた案内板が・・・。
鉄眼禅師は、今から約三百七十年前(寛永7年元旦、1630)に、現在の小川町の、この辺りで生まれた。
僧侶であった父親の影響で当初は浄土真宗を学んだが、本願寺宗徒では才徳がなくとも寺格の高下によって上座にあることを潔しとせず、故郷を出て、1655年(明暦元年)禅宗に帰依した。 その後、大阪に瑞龍寺を開建した他、故郷の小川に三宝寺を創建。
その他にも金禅寺(大阪府豊中市)、海蔵寺(東京都港区北青山)など7か寺を開いた。 ・・・と、ここまではよくありそうな話だが、鉄眼の特筆すべき業績は、苦心の末に「一切経の出版」を行ったこと。 「一切経」とは仏教の各宗派を網羅する仏教経典の集大成で、全約7千巻という膨大な量に上る。ところが当時の日本にはこの「一切経」の版木がなく、書き写すしかなかった。 そこで、鉄眼は現在の宇治市、宝蔵院を本拠として一切経出版の生涯の事業に取りかかるため、全国を津軽から薩摩までその資金集めの行脚の旅に出た。
それは、言葉を絶する大変な旅であった。 大阪地方に大洪水が起こり多くの人々が死傷するなどの姿を見た鉄眼は、「私の一切経出版は仏教を興すにあり、仏教を興すは民を救うにあり」と、それまでせっかく得たお金をその救済のために投げ出し、その後、また今度は近畿地方に大飢饉がおこり、多くの人々が飢饉に苦しむのを見て再び出版資金を投げ出し救済にあたるなど、一度ならず二度までも集めた資金を投げ出した。 こうして三度目の行脚の旅でようやく資金も集まり、着手から十年目、初志を貫徹した鉄眼は一切経(全六千九百五十六巻の)出版を成就し、仏教の経典は一気に全国に広まった。 本願を成就した鉄眼は翌年、過度の疲労からか体調を崩し、五十三歳でこの世を去った。
鉄眼の遺した一切経の版木6万枚は、現在でも宇治市の宝蔵院で大切に保管してあり、
現在でも使用されている。その活字は現在でも印刷の標準字体とされる明朝体で、1行に20文字を彫っている版木の構成は原稿用紙のルーツともされる。
日本の活字文化の源流には、鉄眼の志が生きている。
来た道を戻るつもりだったが、少し時間があるので、県道244号線へ右折し、
娑婆神(さばがみ)峠を越え、
県道30号線へ左折して、山崎橋に立ち寄り、
再び県道30号線を走って、浜戸川沿いの道に入り、
城南からは来た道を帰った。
本日の走行距離:60.4㎞