くまもと自転車紀行

熊本市およびその周辺を走行した記録や装備・メンテなど、自転車にまつわることがらを中心としたブログです

刑法と熊本

カルロス・ゴーン被告が故郷のレバノンに無断出国し、先日の記者会見では日本の刑事司法制度を激しく非難していた。

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そんな日本の司法制度の歴史を紐解いてみると、熊本の関わりが少なからずあったので、今日はその所縁の場所をクロモリロードバイクで廻った。

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(改装工事中で赤レンガの見えない熊本地裁)

時は江戸時代。細川重賢(しげかた)は熊本藩の6代目当主で、「宝暦の改革(財政の再建、教育の振興、法典の制定)」を断行した。

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宝暦4(1754)年に重賢が制定した御刑法草書(ごけいほうそうしょ)は92条の法典で、明律(みんりつ)に学び、総則(名例律)と各則(人命律、賊盗律など)を区分した。

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(当時、西出丸には奉行所が置かれ、「奉行丸」とも呼ばれた)

中でも特筆すべきは、罪人に対する追放刑を廃止して徒刑(懲役刑)を制定し、罪人の更生と社会復帰を図ったことである。この制度は全国に先んじて行われ、その後、他の各藩もこれに倣うなど、現代日本の懲役制度の始まりとも言われている。

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(熊本地震の際に熊本刑務所は独自の判断で避難所として施設を解放した)

時は移って明治維新後、新政府は緊急に刑法典を必要とした。この際、新政府は熊本藩に着目、明治元年1月、12代の熊本藩主だった細川護久を「刑法事務科」の総督に任命。

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明律、清律それに地元の御刑法草書を参考に「仮刑律」124条を起草。その後は、明治3年「新律綱領」、同6年「改定律例」と、律令法の時代が続くことになる。 井上毅は熊本藩士の家に生まれた。

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(生誕の地である必由館高校正門には産湯をとった井戸が保存されている)

13歳のとき、木下犀潭(韡村:いそん)塾に入塾。

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(塾生には後に司法官僚となった者も多い)

その後、藩校時習館で朱子学を学ぶ。23歳のとき江戸に下り、フランス学を学ぶ。 明治5年,司法省に入り、同年フランス出張。その後はフランスの司法制度など欧州の司法理念を取り入れた制度確立に尽力し、大日本帝国憲法起草については、伊藤博文を助け、重要な役割を果たし、伊藤内閣の法制局長官や文部大臣を務めた。

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さて、現在の刑法の中で一番刑の重い「死刑」であるが、その執行は高等裁判所のある都道府県の拘置所で行われており、ここ、熊本では行われていない。

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(熊本拘置所)

しかし、明治維新直後までは各藩で行われており、熊本でも白川の河原2カ所で行われていた。長六橋のやや下流の白川右岸と、

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渡鹿堰から取水した大井手川の出口のある通称「井手ン口」の

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やや下流である。

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当時、同じ死刑でも罪状の軽重により処刑の仕方も6種類ほどあり、「井手ン口刑場」では比較的軽い罪の者の処刑が行われ、対岸にある西岸寺の住職による引導が渡されていたという。

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一方、長六橋際の下流、いわゆる「河原町」の河原では重い罪の者の処刑が行われていた。その跡に建つ地蔵堂には

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御馴染の放牛地蔵に並んで「団子(だご)地蔵」と呼ばれる地蔵が建立されている。

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地蔵堂に貼られた解説文によると、城下町を引き廻された重罪人は、この地蔵さんの横の仮牢で一休みして刑場に向った。この時、罪人の親族縁者が甘い団子を造り、この地蔵さんにお供えし、役人がその団子を最後の食を与えると、罪人とその親族は目と目で今生の別れを惜しみ刑場に引立てられて行った。 その横には「南無妙法蓮華経」と刻んだ石碑がたっている。

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河原町をはじめとする、ここ古町の人々が寄付を集めてこの供養塔を献立し罪人の霊を慰めたという。 当時、重罪人の処刑は抑止効果のために公開で行われており、火炙りの刑などは見物人がごったがえし、長六橋が壊れそうなほどだったとか・・・。首筋に冷たいものを感じながら白川沿いの道を走って帰った。

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