くまもと自転車紀行

熊本市およびその周辺を走行した記録や装備・メンテなど、自転車にまつわることがらを中心としたブログです

木下韡村ポタ

先日の「熊本と刑法」で紹介した「木下韡村(いそん)塾」。その跡地を示す石碑は、現在、京町の小さな公園(京町台公園)に隣接する空き地に置かれているが、その前は私の実家の真ん前に置かれていた。

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それ故、「木下韡村」の名は昔から知ってはいたが、どんな人だったかは全く知らなかったので、図書館で本を借り、ちょっとばかり勉強して、空いた時間に関連する史跡回りを数回に分けてしてきたので、ここでまとめてご紹介。

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幕末の熊本で塾を開き、多くの人材を育てた木下韡村(いそん)は、名を業広(なりひろ)、通称は宇太郎(うたろう)、後に真太郎(しんたろう)、字は子勤(しきん)、号は犀潭(さいたん)、韡村(いそん)。 Wikipediaなどでは「木下犀潭」で載っているが、熊本では「韡村」の方を標記することが多いようなので、ここでも「韡村」を使う。ちなみに、馴染みの薄い「韡」の字は読みは音読みの「い」だけで、「華やかなさま。美しいさま。花の盛んなさま。咲き乱れるさま。」の意。

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さて、その韡村(いそん)は、1805(文化2)年に菊池郡今村(現在は菊池市戸崎)の庄屋の家に生まれた。

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(宝永隧道でも有名)

幼いころから向学心が旺盛で、はじめは細川藩侍医だった桑満伯順(くわみつはくじゅん)に、その後は藩校「時習館」(じしゅうかん)で学んだ。その時習館においても特に秀でていた韡村は、22歳で苗字帯刀を許され、「木下」姓を名乗った。  31歳で細川藩主斉護(なりもり)の伴読(ばんどく:藩主に寄り添い書物を読む役)に選ばれ、以後参勤交代ごとに藩主に従い、江戸と肥後を往復した。

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(イメージです)

35歳の時には藩主の後継である慶前(よしちか)の伴読となり、以後9年間にわたって教育に当たった。 1846年には出身地の今村に家塾「古耕精舎」を開き、故郷の後進の教育を始めた。

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その後、熊本市内に塾を開くにあたり、この家塾は弟の梅里(ばいり)が譲り受け、その後、菊池地域の教育に大きく貢献した。

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(木下梅里を顕彰する石碑が菊池の城山公園に建っている)

45歳で時習館の訓導(くんどう:教官)に任命され、5年後には君主の講義役である侍講(じこう)を兼務するまでになった。

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(あくまでもイメージです)

熊本市内(当初は坪井、その後は京町)に私塾を開くと、熊本藩内のみならず遠くは関東から20年間で900人以上の門弟が集まるところとなった。こうして木下韡村塾は、明治維新前後に各方面で活躍する優れた人材を多く輩出した。

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(こちらもイメージです)

明治憲法を草案した井上毅、外交官で漢学者の竹添進一郎(嘉納治五郎の岳父)、一高校長として夏目漱石を教えた古荘嘉門、明治天皇の侍従を務めた米田虎雄、敬神党の斉藤求三郎、民権派の宮崎八郎、有馬源内(熊本市会初代議長)、医学者の北里柴三郎も学んだ。京都帝大初代総長の木下広次は韡村の子である。また、劇作家の木下順二もその一族である。 1863(文久3)年、韡村を高く評価していた幕府は、幕府の直轄校である江戸の昌平黌に教授として招くが、韡村自身は、まだ藩公の御恩に報いていないとしてこれを断った。 そして韡村は、1867(慶応3)年に63歳で惜しまれながら永眠した。 山室町の朝日野病院から泰勝寺方面へ坂を上ると左側に立田山配水池へ上がる階段がある。

墓所への階段.jpg

その途中から案内板に従って左へ進むと、

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立田山の西側斜面の木立の奥深くに木下家の古い墓地があり、

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その一角で韡村が静かに眠っている。

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