くまもと自転車紀行

熊本市およびその周辺を走行した記録や装備・メンテなど、自転車にまつわることがらを中心としたブログです

「竹崎順子」ライド

朝、5時半頃にカーボンロードバイクで出発し、明午橋を渡って県道1号線、31号線を走り、

植木町菱形からは県道191号線に入り、

玉東町を抜け、

玉名市へ。

「熊本から気ままに山と自転車のブログ」の「自転車くま」さんが横島干拓地の「竹崎順子屋敷跡」をレポートしていたので、竹崎順子の事を調べて、玉名市横島と熊本市内を廻った。それと、これまでに撮った画像も加えてレポート。

 

竹崎順子は文政8年(1825)、現在の益城町杉堂で矢嶋忠左衛門の四女として生まれた。

16才の時に伊倉の豪農の竹崎家の養子で29才の律次郎の妻となった。ところが結婚を機に酒造業を始めた夫・律次郎が米相場に手を出して破産。律次郎は夜逃げ同然で高森の親戚の家に身を隠し、順子は風呂敷包みひとつで実家に戻った。

やがて、その高森の親戚が布田手永に転任となったため、律次郎もこれに同行し、布田で塾を開くことになり、

塾は布田手永の会所の後ろ

 

19才の順子も律次郎の元に戻った。布田の会所に隣接して建てられた村塾は奉仕活動であったため、順子は畑仕事の傍らに養蚕、機織り、蒟蒻や豆腐の製造・販売ときびしい生活を続けたが、「毎日楽しんで働きました」と振り返っている。この間、夫・律次郎は横井小楠の門下生となり、名を「茶堂」として実学を学び日々の生活に活かすようになった。

16年後に、万延元年(1860)には律次郎の生家である伊倉の木下家から横島新地開墾の監督の依頼があり、夫婦は横島へ移転。

干拓地の四十町の耕作主となり、農耕の傍ら子どもたちの教育にも取り組んだ。

明治3年(1870)、肥後の維新がやってくると、茶堂(律次郎)は肥後藩庁に召し出され、夫婦は横島を娘夫婦に任せて熊本に出た。

「細川藩民部大屬」として藩政改革をおこなった茶堂は3年後、公職を辞し、本山村に私塾「日新堂」を創設した。

向山小学校の母体が日進堂と言われている

 

数百人の門下生には女性もいたので、順子は料理やミシン、裁縫などを教えた。

明治10年(1877)に竹崎茶堂は65才で死去。

夫の死後、順子は肉親の相次ぐ不幸に見舞われ、孔孟の教えでは救えないものが現世にはあることを知る。そして、妹の徳富久子(徳富蘇峰・蘆花兄弟の母)や姪の海老名みや子(海老名弾正の妻)の導きでキリスト教に接する。
明治20年(1887)、62才の順子は洗礼を受けて入信。
明治22年(1889)、64才で熊本女学校の初代舎監になり、翌年に校長の海老名が熊本を去るのと同時に順子の退職が決まったが、順子を慕う生徒の退学が続いたため再採用となった。その後、順子の校内での存在感が強まり、遂には1897年(明治30年)に女学校の校長に就任し、亡くなるまで8年間校長として、学校の運営を基盤を築いた。

玉名市横島から、休日なのに相変わらず多い大型トラックに怯えながら国道501号線を走り、坪井川沿いに県道237号線を走って高野辺田(こうやべた)に入り、左折して独鈷山の坂を少し上る。

左へ進み坂を上ると竹崎家の跡地が公園になっている。

石段を上がって行くと

東屋が建っていて、その先に竹崎家の墓地がある。

竹崎茶堂と順子の墓は、夫婦で暮らしたこの地に並んで建っている。

本日の走行距離:63.0㎞