土曜の朝から日曜日の夜まで双子の孫を預かっているので市内をちょっとだけ早朝サイクリング。
まずは足慣らしに白川沿いに走って
花岡山に上り、
その後、第一高校と出町の往生院を廻って帰った。
明治2年(1869)に熊本藩知事となった細川護久は就任するとすぐに藩政改革に着手し、明治3年(1870)7月に熊本藩の医学養育機関であった医学校・再春館を閉じ、10月に洋式の治療所(藩立病院)を現在の第一高校の地に開院した。
翌明治4年(1871)4月には治療所の中に医学講習所の「古城医学校」を設置した。
この医学校にオランダ人軍医のマンスフェルトを教師に招き、オランダ医学による教育が行われた。
この時、助教のひとりとして通訳、翻訳、講義などを担当したのが「奥山静叔」であった。
奥山静叔は文化14年(1817)、山鹿郡相良(あいら)村に生まれた。奥山家は相良観音の門前で代々医業を営んでいた。静叔は幼い頃から秀でており、日田の咸宜園を経て大阪の緒方洪庵の適塾で蘭学を学んだ。適塾でも傑出した存在で洪庵の信頼も厚く、第二代塾頭を務めた。
長崎にも遊学して長州から勉強に来た村田蔵六(後の大村益次郎)に西洋医学を教えたと言われており、
大村益次郎の生涯を描いた司馬遼太郎の「花神」の最初の巻では頻繁に登場している。
奥山静叔が塾頭を務めた適塾の医療所と医師養成所はその後、大阪医学校、大阪医科大学、さらに大阪帝大医学部となり、現在の大阪大学医学部の前身となっており、阪大医学部の同窓会誌にも奥山静寂を「阪大医学部の始祖」として紹介している。
さて、そんな奥山静叔は弘化3年(1846年)に帰郷し、後には藩主の内命で熊本に出て内坪井で医業を開き、
諸生を教え、蘭書を翻訳した。文久3年(1863)には藩主の侍医となり、明治維新後、古城医学校が開設されると助教に任命され、熊本における西洋医学振興の礎を築き、明治27年に78歳で亡くなった。
出町の往生院には
良く目立つ標柱とともに、奥山静叔の墓が立っている。
出町の往生院から内坪井町を経由して帰ったら孫の世話が待っている。
本日の走行距離:22.2㎞