くまもと自転車紀行

熊本市およびその周辺を走行した記録や装備・メンテなど、自転車にまつわることがらを中心としたブログです

敵味方の区別なく・・・(前篇)

午前中なら大丈夫そうな天気なので、いつか廻ろうと思っていた、田原坂公園の新しい資料館、

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玉東町の木葉(このは)

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と水前寺のジェーンズ邸などを訪れた。

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今日のレポは、編集して・・・。 日本での赤十字の誕生は、「西南戦争(西南の役)」にさかのぼる。 明治10年(1877年)2月17日に鹿児島を発した薩軍本隊は、2月22日には熊本鎮台が守る熊本城を包囲。同じ日、植木町では小倉からの官軍の援軍との間で地上戦が開始された。

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(豊前街道沿いの植木神社)

戦地は各地に拡大し、中でも激戦となった田原坂の戦い

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(弾痕の家)

では3月4日から20日の間に多くの両軍兵士が命を落とした。

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(高月官軍墓地)

また、傷を負った官軍の兵士のために寺院や民家が「包帯所」とされ、そのひとつである、玉東町木葉の国道208号線沿いにある「正念寺(しょうねんじ)」

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の山門には戦いの激しさを物語るように銃弾の跡が、いくつも残っている。

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さらに少し離れた「徳成寺(とくじょうじ)」も同様に包帯所として使われたが、

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当時、包帯所として使用された現存する唯一の建物である。

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これらの包帯所の視察に来た元老院議員・佐野常民(さのつねたみ)は、民間の救護団体結成の決意を固めた。

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佐野はもともと佐賀藩の藩医であり、医学はもとより蘭学、物理学、化学、外科術、冶金術等を修め、長崎海軍伝習所で航海術、造艦術、砲術などを学び、佐賀藩三重津海軍所で海軍伝習を行ない、日本人による最初の蒸気車・蒸気船の模型を作り走らせた。明治6年、ウィーンで開催された万国博覧会に、明治政府の派遣団責任者として参加した際にその万博会場で国際赤十字の組織と活動を見聞した。 包帯所の惨状を眼にした佐野は、欧州で既に活動していた赤十字のような民間の救護組織を創ろうと、同志とともに政府に「博愛社」の設立を願い出た。 しかし、「敵味方の区別なく救護する」という願いは、既に開戦中でもあり、政府には認められなかった。そこで明治10年(1877)5月1日、佐野常民は熊本城内の総督本営 (当時ジェーンズ邸が本営として使用されていた) を訪れ、

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征討総督の有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみや たるひとしんのう)、

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参軍の山県有朋(やまがたありとも)らに救護団体結成の目的や必要性を訴えた。玉東町の木葉城跡の高台から戦況を視察していた有栖川宮熾仁親王も

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その主旨を聞かれ、即刻許可の意を表された。

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佐野は直ちに救護団体の設立請願書を書き、5月3日に本営へ提出し、本営も同日設立を許可。 日本赤十字社の前身である「博愛社」がここに誕生した。西南戦争中の明治10年(1877)5月3日のことであった。 当時、熊本城内にあって、本営として使われていた洋館の有栖川宮熾仁親王殿下と佐野常民の会見のあったその2階の部屋は「日赤発祥の部屋」と呼ばれている。 その後、「日赤発祥の部屋」を有するジェーンズ邸は、県庁の移転に伴い新南千反畑町に移転され、献血所や事務局などとして使われた後、現在の、水前寺成趣園裏に移設されている。

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こうして結社を認められた「博愛社」は救護員を確保し、玉東町木葉において、敵味方の区別なく、官軍・薩軍の負傷者の救護に当たった。

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(徳成寺)
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(正念寺)

ところで、救護は「敵味方の区別なく」行われたんだろうけど、亡くなった後のお墓はやっぱり区別して少し離れた場所にしたみたいね。

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その後、「博愛社」は10年後の明治20年、「日本赤十字社」と名称を改め(佐野常民が初代社長)、100年の時を刻み現在に至っている。

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本日の走行距離:50.7㎞

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