(立岩・薩軍砲台跡)
(周辺の蜜柑畑には薩軍兵士の墓が点在)
吉次峠を護る熊本隊および薩軍は3月4日から始まった政府軍の度重なる攻撃を果敢に跳ね返し、多くの戦死者を出した政府軍にとってはこの峠は「地獄峠」となった。(「佐々友房死守の地」の碑)
吉次峠のすぐ横にある半高山(はんこやま)でも激戦が展開された。
そんな中、西郷隆盛の側近中の側近である薩軍一番大隊長・篠原国幹が戦死。篠原は赤裏の外套に銀装刀を装い、陣頭に立って部隊を指揮した。(こんな感じ?)
そんな篠原を見知っていた官軍の江田国通(薩摩藩出身)は部下に命じて篠原を狙撃させた。弾は篠原に命中した。そして江田もまた薩軍の反撃で命を落とした。
政府軍は吉次峠の攻略を一旦諦め、田原坂の攻略に集中することにした。
3月4日に開始された田原坂の戦いでも当初、政府軍は苦戦を強いられた。
田原坂は長さ約1.5㎞、標高差約80mの緩やかな坂である。
しかし道は緩やかに蛇行し、低い切通しとなっている箇所が多く、しかも周辺は竹林や雑木林で伏兵を置きやすく作ってある。
築後・玉名方面から軍備を運ぶことができる唯一の道である田原坂は、加藤清正が北西の守りの要として作っておいた要害であった。
この難所を攻略するために、政府軍は田原坂と西側に平行した二俣台地から横平山にかけて攻略を開始。
ここでも薩軍の激しい抵抗に遭い、特に横平山では白兵戦に持ち込まれて政府軍は多くの死傷者を出した。
政府軍の兵士の多くは徴兵された農民で、性能に勝る鉄砲での銃撃戦では優位にたてるものの、剣術の経験が浅かった。一方、薩軍および熊本隊は全員が士族の出で、しかも戊辰戦争などで実戦経験も豊富な剣術の使い手が多く、白兵戦になると圧倒的に薩軍が有利であった。
そのため、政府軍は士族出身の剣術に優れた者からなる「抜刀隊」を作り、白兵戦に持ち込んだ薩軍に対抗した。(左側が警視抜刀隊の制服)
こうして激戦の果てに3月15日遂に横平山を落とした。
横平山の麓にある「薩軍兵站地跡」の湧水は両軍の負傷兵の血で赤く染まったと言われる。
横平山の山頂には慰霊碑が建てられており、その近くには薩軍兵が籠った塹壕の跡が残っている。
二俣台地を制圧し、数カ所に砲台を築いた政府軍はまずは砲撃を加え、続けて歩兵を突撃させる攻撃でじりじりと薩軍を後退させた。
3月20日、田原坂にほど近い七本柿木(ななもとかきのき)の薩軍陣地(この時亡くなった約200名の高鍋隊兵士を偲んで墓碑が建てられている)
を側面から攻め落とし、これをきっかけに、ようやく田原坂を攻略し薩軍を敗走させた。
田原坂の戦いの17日間で膨大な量の弾丸が使用され、薩軍、政府軍ともに多くの死傷者を出した。西南戦争でも最大の激戦地とされる田原坂は現在は公園として整備され、西南戦争で命を落とした約14000名の兵士の名を刻んだ慰霊塔をはじめ、一昨年11月にリニューアルされた資料館や、弾痕の家などが当時の戦いを偲ばせる。
そして新たに造られたテラスから北を眺めると、三の岳の手前側に、先ほど廻って来た二俣台地、横平山、半高山、吉次峠が見えた。
田原坂を制圧した政府軍はその日の内に一気に熊本城まで攻め込もうとしたが、植木町荻迫や向坂で薩軍の激しい抵抗に遭い、多くの死傷者を出し、後退した。
植木町荻迫の薩軍戦没者の墓、明徳官軍墓地に建てられている122の墓石のうち、ほとんどがこの日の植木での戦闘によるものである。
最後に植木のセブンイレブンで休憩して流れ解散となった。
こくろさん、ともパパさん、お疲れ様でした。
鹿児島県人のサイクリスト、こくろさん、ヘイホーさんとの西南戦争史跡巡りはこれにて一旦区切りをつけるが、田原坂の戦いの後、県下全域に及んだ戦跡については暇を見つけては今後も継続的にレポートしたいと思っている。
本日の走行距離:56.0㎞