(野々島にある「二子山石器製作遺跡」の丘には薩軍の砲台が置かれた)
薩軍の他、熊本協同隊、飫肥隊、貴島隊(私学校以外の薩摩藩士族が構成)が進軍して来る政府軍を迎え撃った。
ちなみに、菊池に陣を置いた熊本協同隊は4月初め、本格的な戦いを前にして、菊池神社で花見の宴を開き士気を高めたと言い伝えられている。
木留(きとめ)から激戦を続けながら植木へ進軍し、菊池方面へ兵を進めた政府軍第三旅団と菊池に本陣を置いた薩軍との戦況は一進一退しながらも兵力に勝る政府軍が次第に薩軍を追い込んで行った。(南田島に残る政府軍の本営跡)
4月10日早朝に菊池から大津へ撤退するまで戦いは熾烈を極め、戦死者は官軍38名に対し、薩軍方はその10倍の300名近くにもなった。
官軍方の戦死者は現在の菊池公園にある「平和の塔」の裏手の官軍墓地にひっそりと埋葬されている。
一方、薩軍方の戦死者の処遇については長い間、不分明になっていたが、渕園墓地の楠の木を墓標として埋葬されたことが戦後115年目にして判明し、その近くの渕園団地入口に石碑が建てられている。
この間、薩軍の本営は二本木から木山へ移され、北からの政府軍討伐軍と南からの政府軍衝背軍は、ついに鎮台兵とその家族らが籠城する熊本城へと兵を進めた。