午前6時頃クロモリロードバイクで出発し、
北バイパスから供合線を東へ走り、
瀬田から坂を上がって国道57号線を東へ。 今回もお尻がゾワーっとならないようにひたすら前だけを見て新阿蘇大橋を渡る。
渡り終えたらすぐ左へ折れて南阿蘇橋を渡って少し走った旧・阿蘇大橋の掛かっていたところから
右に上がった辺りから先一帯を「黒川口」と呼び、ここで西南の役の戦いがあった。官軍三十四名、薩軍七名の死者と多数の傷者を出したこの戦いの慰霊碑が路傍の空き地に建てられている。
三十四名の官軍の死者の中で、後世に語り継がれる人物が、元会津藩家老・佐川官兵衛である。
坂をさらに上がって県道149号線を右折し、さらに数百メートル坂を上った左側の奥の辺りで官兵衛は殉職した。
佐川官兵衛は天保二年(1831)、会津藩の物頭(足軽クラスの下級武士を束ねる中級武士)・佐川幸右衛門の長男として生まれた。長ずるに文武両道に秀で、慶応年間に上京して京都守護職にあった藩主・松平容保のもと、藩校京都日新館の奉行と別選組・諸生組の隊長を兼務するなど頭角を現した。慶応四年(1868)一月勃発の鳥羽伏見の戦いでは孤軍奮闘し、刀は折れ右目の上に銃創を負っても平然と指揮をつつけたことから「鬼官兵衛」の異名をとった。
会津開城から六年、明治七年(1874)には旧藩士三百名を率いて東京警視庁に出仕、麹町警察署長職にあった十年二月に西南の役が起こると、豊後口警視隊副指揮長として阿蘇の南郷谷へ出征した。 当時は地租改正費や民費の取り扱いに関する疑惑などから戸長・用掛など小区の役人に対する農民の不満が沸点に達し、阿蘇では2月下旬から3月にかけて大規模な打ちこわしが行われるなど、警視隊にとっては難しい社会背景があった。 旧白水村の明神池畔の宿に居を構えた官兵衛は、真っすぐで愛嬌のある性格に加え、部下には規律を厳守させて優しく村民に接したため、住民の信頼を勝ち得て、「鬼さま」と呼ばれて親しまれた。
しかし、一方で当時、既に薩軍は豊後街道の要衝である二重峠を占拠しており、加えて南郷谷から二重峠への険路であった黒川口にも薩軍は陣地を構築していて、佐川隊に不利な状況となっていた。佐川隊は地元士族の「南郷有志隊」の応援を得て
三月十八日(その頃、田原坂では終盤戦になっていた)未明に旧白水村から出動、この地て薩軍に遭遇し、両軍は激しく交戦した。鬼官兵衛は薩将と斬り結ぶうち、胸に被弾して倒れた。享年四十八であった。
官兵衛が殉死した場所には記念碑が建てられ、熊本地震の前までは「西南の役(戦跡)公園」として整備されていた。
十数年前にここを走った時に案内板を目にして、ここで西南の役の戦いが行われていたことを知り、それまで、西南の役と言えば、田原坂の戦いと熊本城の籠城戦しか知らなかった自分は大変驚き、その後、西南の役について調べるきっかけになった場所でもある。
久しぶりに訪れてみると、いくつかの石碑は場所を変えて建て直されていたが、
多くは整地作業も含めて復旧工事中であった。
また、京都大学火山研究所の立つ丘の西の麓でもあるこの地では
熊本地震で想定外の大規模な地滑りが起こって南阿蘇村の高野台分譲地を襲い、5名の尊い命が奪われた。
村は地震後に策定した復興計画に「地震被害の教訓を後世に伝え、防災意識の向上や観光への展開につなげるため、被害が甚大な場所を保存することを検討する」と掲げており、地滑りの跡が色濃く残る分譲地も「震災遺構として保存する意義がある」として住宅地を含めた公園化が進められていた。
高野台を後にして、県道149号線を戻って赤水方面へと走り、
赤水からは県道23号線で坂を上り、
薩軍が4月21日に本営を木山に撤退するまで死守した二重峠を越え、
大津に降りて芋畑を抜けて、
薩軍の敗走のきっかけとなった「大津の戦い」の跡地を廻って、
後はいつものように鉄砲小路を経由して県道337号線、北バイパスと走って帰った。
本日の走行距離:70.7㎞