くまもと自転車紀行

熊本市およびその周辺を走行した記録や装備・メンテなど、自転車にまつわることがらを中心としたブログです

そのころ山鹿では・・・

山鹿に用事があったので、クロモリロードを車載し、昼過ぎから雨が上がるのを待って平山温泉周辺を史跡ハント。
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六地蔵をゲット!)
そして、以前から撮り貯めた画像も使って、しつこく西南戦争をレポート。 さてさて、西南戦争においては、田原坂の戦いが余りにも強烈なので他の戦いは霞んでしまう傾向があるけど、同時期に山鹿でも激戦が繰り広げられていた。 山鹿は豊前街道でも有数の宿場街であり、薩軍も官軍も戦略上重要な場所と考えていたのだ。 山鹿ではまず、2月23日、乃木少佐が率いる第14連隊の一部が山鹿に到着したものの、兵力の少なさから平地での布陣を嫌い、山鹿の北方、彦岳の麓の津留に退き、正円寺に陣取った。
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2月25日には第四大隊長桐野利秋率いる薩軍および熊本協同隊、宮崎からの飫肥(おび)隊などが山鹿を占領した。
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(「山鹿ホテル」があったところが薩軍の本営)
翌2月26日、薩軍と官軍第14連隊第一大隊が鍋田で激突し、官軍は大敗して敗走。 官軍は小倉からの討伐本隊が到着した南関からの援軍を待って兵力は二千余名となった。一方、薩軍側は総勢三千八百名。 3月3日、薩軍は隊を本隊と支隊の二手に分け、本隊は豊前街道を進んで
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車坂、
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永野原、
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腹切坂へと攻め込み、
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支隊は岩野間道を進み、
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平山を経て官軍を敗走させ、南関まであと少しの板楠まで達した。 3月4日、官軍の田原坂総攻撃が始まった日、薩軍の斥候から「田原坂大敗」との報告が入り、挟み撃ちされる事を恐れた薩軍は山鹿まで撤退した。
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しかしその日、田原坂では薩軍が官軍を撃退しており、誤報であった。 この誤報がなければ、薩軍は南関まで達し、戦局は幾分変わっていただろうと言われている。 3月10日、官軍にさらに援軍が到着。岩村の光行寺や
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平山の民家に官軍の本営が置かれた。
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3月12日から断続的に官軍が進撃を開始。永野原周辺から平山にかけて一進一退の激しい攻防が続いた。
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(永野原)
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(保多田)
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(笹原)
3月20日田原坂陥落の報が入ると一気に形勢は官軍側に傾き、3月21日、官軍が山鹿を占領し、薩軍は隈府方面へ撤退。山鹿の戦いは終了した。 さて、西南戦争での「山鹿」といえば、地元に所縁のある「熊本協同隊」を思い浮かべるが、もうひとつ印象に残るのが「飫肥隊」である。 飫肥隊はその名の通り、現在の宮崎県日向市を含む地区にあった飫肥藩から、800名が鹿児島県令の呼びかけに応じて薩軍に加わった。 当初は川尻の警護に当たり、その後、隊を編成して山鹿方面へ従軍した。 山鹿では光顕寺に本営を置き、
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官軍の攻撃が集中した鍋田台地の南端部に陣地を築いて奮戦し、
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多くの死傷者を出した。
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飫肥隊の陣地に近い山鹿市立博物館の入口には飫肥隊を追悼して「慰霊の歌碑」が建てられ、
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日向の杉として全国的に有名な「飫肥杉」が植林されている。
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また、その隣には24日間に渡る山鹿の戦いで命を落とした両軍の兵士の名が記された石碑が建っている。
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官軍墓地の多くでは戦死した兵士一人ひとりの氏名、階級、出身地を記した墓標がたてられているが、
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(山鹿官軍墓地)
薩軍側ではそのような墓はほとんどなく、薩軍野戦病院となった長源寺に
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「岡村平助、和田新左衛門」の名が記された二基の小さな墓が残っている。
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また、薩軍の北の拠点となった日輪寺では、
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「上野清吉、山上勇太郎、山内治三郎」の三名の薩軍兵士の名を刻んだ墓が建てられている。
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その隣にはその墓を建てた、東京巡査隊第二小隊長の押川仙太郎を顕彰する碑。
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押川は官軍兵士として従軍し、3月20日、この周辺で薩軍兵士3名の遺体を見つけ丁重に埋葬した。 墓石の正面には「官賊無 鎮魂色即是空」、左の側面には「天下国家ヲ諭ス 賊名捨テ迷ワス 魂ヨ故郷ニ帰レ」と刻まれている。 本日の走行距離:18.8km