くまもと自転車紀行

熊本市およびその周辺を走行した記録や装備・メンテなど、自転車にまつわることがらを中心としたブログです

やっとのことで「薩軍兵士の墓」

午前7時過ぎにクロモリロードバイクで出発して明午橋を渡り、

県道1号線および県道31号線(一部ゆうかファミリーロード)を走って国道208号線を西へ進み、木葉を過ぎて稲佐から右に折れ、安楽寺を抜けて

梅林の坂の下地区へ。

ここの記念碑のところにある案内板の「薩軍兵士の墓」は、

これまでに数回探索したが到達できなかったので、ひと月ほど前に田原坂の西南戦争史料館で受付のおじさんに場所を伺ったら、「うろ覚えですが・・・」とおっしゃりながら、だいたいの場所を教えた貰ったのだ。

ところが、その言葉通りに進んでも、それらしい手掛かりがなく、再び案内板の所に戻って途方に暮れていたところ、天の救いか、集落のお兄ちゃんらしい人が通りかかったのだ。

このお兄ちゃんは、耳と言葉が不自由なようだけど、わたしが案内板を指さすと、

自信なさそうに首を傾げながらも、細い路地の坂を進んで、廃屋の庭らしいところを抜け、

山道に入り、それらしい場所へ案内してくれた。

墓石がいくつか立つ中に、目指す「薩軍兵の墓」にやっとのこと発見!


西南戦争といえば「田原坂の戦い」が有名だけど、その直前の、2月25日から27日にかけての「高瀬の戦い」は、両軍が初めて主力同士で戦った事実上の「天下分け目の戦い」であった。

その二日目の2月26日、政府軍の一隊が早朝に高瀬を出発して菊池川を渡って山部田付近で待ち伏せしていると薩軍加治木隊が行軍してきた。その切れ目を狙って政府軍が攻撃を開始し、加治木隊の一部は敗走して近く山に逃げた。

この時負傷した加治木隊の十九名がここで友軍を待ったが、取り残され、そのうち十六名が集団自決し、三名は離れたところで死亡しており、近くに住む嶋津太郎作が遺体を葬った。

嶋津家の菩提寺である常安寺の過去帳には「明治10年2月27日下村の嶋津太郎作の畑に葬る。戦死者は薩州加治木一番隊より四番隊までの十九名」と記録されていた。

また地元のお年寄りの話によると、明治11年に遺族たちが遺骨を引き取っていったが、一つだけ墓が残っている、ということだったので、さっそく玉名市の担当者が調査したところ、嶋津家の墓地にひっそりと立っていた。

「薗」の字はくずし字となっている

墓には「東楠薗利助之墓 明治十二年二月二十六日」とあり、加治木の友人が奉納したものであることが判明し、その後、西南の役から120年経った平成9年には加治木から東楠薗利助之の曾孫となる人ら7名がここを訪れ、墓石に加治木の水をかけ、線香をあげ、手を合わせたという。

加治木隊の集団自決の土地でしばらく過ごした後は、道案内をしていただいた集落のお兄さんに深謝し、道を戻り、田原坂を上る。

田原坂公園の西南戦争戦没者慰霊碑には

西南戦争で戦死した官軍6,923名、薩軍7,186名、殉難者29名が刻銘されている。

薩軍の戦死者の中に、本日の「薩軍兵士の墓」の「東楠薗利助」を発見。

まわりの名前の、そのひとつひとつにもストーリーがある事を感じながら、国道3号線、坪井川沿いの道、

白川沿いの道などを走って帰った。

本日の走行距離:53.8㎞