くまもと自転車紀行

熊本市およびその周辺を走行した記録や装備・メンテなど、自転車にまつわることがらを中心としたブログです

敵味方の区別なく・・・(後篇)

絶好のサイクリング日和でロングライドにでも出かけたいところだけど、前回の絡みで近場のポタ。 午前9時過ぎにシクロクロスバイクで出かけ、国府、横手、坪井、妙体寺、室園、清水亀井などを廻った。

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今回も編集して・・・。 佐野常民が「博愛社」の結成を「官」に働きかけていた頃、熊本城下では地元の医師団がすでに敵味方の区別なく戦火に傷ついた人達への「民」の救護を始めていた。 その中心人物が鳩野宗巴(はとのそうは)である。

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鳩野家では 1世から10世までが同じ「鳩野宗巴」の名を受け継いで医業を行っており、2代目から熊本城下に居を構えていたが、その8代目(以下は「鳩野宗巴」)が今回の中心人物である。 鳩野宗巴は、1844年(弘化元年)3月14日に生まれた。 鳩野家伝来の和欄流の医法に加えて、華岡青洲(世界で初めて全身麻酔による手術を行った)門下から外科を学んだ父親に従って医術を修めた。その父親が49歳で死去後は僅か19歳で家督を相続し、翌年には医師として藩に仕えるようになった。 明治元年(1868年)維新戦争の時、明治政府は横浜に英国の軍医ウイリアム・ウイリスを院長として

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横浜に軍事病院を設けて 戦傷者の洋式治療に当てたが 細川藩は 25歳の鳩野宗巴を5ヶ月間、同所に派遣して治療と修行に当らせた。

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(25歳の鳩野宗巴)

この時、宗巴は西洋医学と共に、当時ヨーロッパで設立された国際赤十字(1863年 スイスに設立)の敵味方や身分、貧富等も一切差別しない医師としての博愛精神も欧米の医師達から学んだと思われる。 明治10年(1877年、34歳の時)には、現在の妙体寺町に、医院の「活人堂」、病室の「養生軒」、医学塾の「亦楽舎(がらくしゃ)」を構えていたが、西南の役が勃発。市民の多くは田舎に疎開し、宗巴は当時、別荘として使用していた室園の「拝聖庵(はいしょうあん)」に難を避けたが、2月19日の熊本城天守閣の炎上の時に、上林、上通、坪井と延焼し鳩野家の広大な家屋も全焼した。

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(当時の地図。中央の○で囲んだ所が鳩野宗巴邸)
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(今は大きなマンションが建っている)

その後、2月23日には、薩軍側に付いた熊本隊の隊長・池辺吉十郎らが宗巴を訪れ、「熊本の士族は熊本隊、協同隊、竜口隊を組織して西郷方に与して戦っている。そのため負傷者が続出して困っているので西郷方のため治療に従事してくれ。」と強要した。

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(宗巴直筆の「熊本士族の三隊長」)

要求を断れば命の危険もあったが、宗巴は少しも動じず、「あなた方の負傷者は実にお気の毒だが、官軍の負傷者にも手が届かずいる者が多く、また戦争の余波で負傷した罪無き普通人も少なくない。医は仁術によって、傷病者の治療はもとよりいとわないが、西郷方だけに限らず、官軍も一般人も等しく治療してよろしいというならば喜んで御申出に応じたい」と答え、池辺もこれを承服した。 宗巴はさっそく同僚の藩医7名とともに、拝聖庵や

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亀井村(現在の清水亀井町)に仮病院を開くなどして、負傷者を収容したところ、たちまち200人に及び、近隣の学校(梅木小学校)、寺院(亀井の光照寺)や

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民家41戸を借り上げて病室とし、更に分院として、白山神社の

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社務所と周辺民家30戸を借上げて、同所には新たに4名の医師を置いて治療にあたった。 この医療活動は皆自費で行われ、近隣の婦人達が競って看護に協力し、初めての戦陣での組織的な女性の看護活動も行われた。こうした活動が、日本赤十字社の前身として5月27日に熊本で設立された博愛社よりも3ケ月余り早く始められ、さらには博愛社が官軍側の主導で開始されたのに対し、宗巴らは、官に依らない民間組織という、赤十字本来の精神にも通じることから、「日本の組織的赤十字活動の始まり」ともされている。 また、宗巴は、その父の、「世は次第に名利に馳せ、医もまた、これを学ぶ傾向有るは甚だ憂うべきことである。故に卑しくも天職たるを忘れるようなことは以ての外のことだ。我が子孫たるものはものは大いに意を此処に致して怠ってはならない」という遺訓を守り、再興した医学塾の「亦楽舎(がらくしゃ)」で多くの医学生を育成するなど、医道に励むと共に、質素な生活を送り、多方面への寄付、弱者を支援するなどの多くの慈善事業にも励んだ。 明治25年には、塘林虎五郎

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によって熊本貧児寮(大江学園

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の前進)が現在の坪井5丁目に設立されると、

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宗巴は進んで施設医となり、20年にわたって報酬を受けずに協力している。 宗巴は、医業の他にも質屋を営業し、貧民のために無利息の受出しをした。 また、壺川小学校の建設や、

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当時、南千反畑町(現在の白川公園)に移転した熊本県庁舎の建設など公益のために義金を投じている他、往診で出されたお菓子を包んで帰り、道で貧しい家庭の子供に与えるなどしている。 日清戦争の後に盛大に行われた招魂祭では、軍人と共に戦死した馬も、等しく祖国のために倒れたのだからと、独力で上通の宗岳寺

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境内に馬の慰霊碑

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を建立したなどの逸話も残っている。 さらに身近な例では、最寄りの藤崎八幡宮にも寄進をしており、宗巴や妻・律子の名を刻んだ玉垣が鳥居の横に並んでいる。

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(そうとは知らずに、ここにはよくロードバイクを立て掛けた)

宗巴は60歳ごろから脳卒中を煩い、1917年(大正6年)3月8日に72歳で没した。墓は熊本市横手町の妙永寺にある。

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宗巴の功績を称え、昭和52年には「診療、医学生の育成に尽力し終生慈善を行った医師」として熊本県近代文化功労者に選ばれ、平成17年10月14日には、拝聖院において銅像の除幕式が行われた。

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前回の佐野常民と今回の鳩野宗巴。 共に「元藩医」であり、西洋から始まった赤十字の博愛精神に感化を受けながら、佐野常民は多方面の才能から政治家として、軍や宮家の協力を取り付ける事によって、盤石な組織を作り上げた。

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他方、鳩野宗巴は父の教えに従い、一介の医師としての研纂を積み、己の信ずる道を突き進んだ。

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ふたりの対比を興味深く感じながら春風の中を走った。

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本日の走行距離:39.6㎞ なお、今回は以下のサイトから一部を引用した。 Wikipedia 鳩野宗巴の紹介 旧細川藩医鳩野宗巴の医療・福祉実践 旧細川藩医鳩野宗巴と11名の医師たちが向き合った西南の役