くまもと自転車紀行

熊本市およびその周辺を走行した記録や装備・メンテなど、自転車にまつわることがらを中心としたブログです

チラっと御船町

明日の空模様が怪しいので、土曜日の午前中の仕事を終えて一旦帰宅し、午後1時半頃から御船へポタリング。

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京塚、健軍を経由して浮嶋神社で定点撮影。

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丘を越えて田舎道を走り、自宅から15㎞たらずで御船に到着。 街中の通りにはどこかしこに恐竜のフィギアがあり、

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「恐竜の郷」の風情が満ち満ちている。

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今を遡る40年前の1979年8月5日、御船町梅木の御船層群の露頭で夏休みの自由研究として貝の化石採集を行っていた親子が、サメの歯のような化石を発見。

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(御船町恐竜博物館に常設展示してある)

後にこれが肉食恐竜のメガロサウルスの歯と判明。日本で初めての肉食恐竜の化石発見であった。そしてその後も御船では多くの恐竜化石が発見され、全国的にも注目されるようになってきた。

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(重要な化石の多くは天君ダム近くの露頭の地層から発掘された)

そこで御船町は平成6年3月に基本構想を策定し、以来、「恐竜の郷づくり」を進めてきた。

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(その中心となるのが「御船町恐竜博物館」)

こうして今や「恐竜の郷」となった御船町であるが、

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古くから上益城地方の政治・経済・文化の中心地。県下屈指の醸造の町で日向往還の宿場町でもあり、有数の商都として知られてきた。

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江戸末期には宮部鼎蔵をはじめとして御船に生まれ育った5人の先哲が登場し、歴史を彩った。

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(町役場に建つ「郷土先哲の碑」)

その中のひとり、増永三左衛門は、日本古来からの製鉄法で熊本初の大砲を製造している。 幕末、ペリー艦隊の浦賀来航を機に、幕府は各藩に海岸防備警備を命じた。熊本では藩の命により御船町の商家・増永三左衛門らが大砲の製造に着手した。当時、大砲を造るには西洋式の反射炉が必要とされていたが、三左衛門は家業の金鋳場を利用して日本式のたたら炉での大砲製造を試みた。従来の鋳造技術に独創的な工夫を凝らして、西洋製を凌駕するほど高性能な「層成砲(入筒法)」を発明。目標を遙かに超える飛距離を記録し、熊本藩に採用された。この時の大砲は、明治になると熊本城内に設置された熊本鎮台に受け継がれ、市民に正午を知らせる「午砲」のための大砲として昭和17年頃まで活躍した。

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(「季刊 旅ムック」より)

わたしの高校時代の同級生の話によると、明治29年から4年以上を熊本で暮らした夏目漱石は、

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(熊大構内の漱石像)

次のような句を残している。 「午砲打つ 地城の上や 雲の峰」 増永三左衛門の造った大砲の音は漱石の耳にも届いて、その感性を刺激していた。 慶応三年(1867)、増永三左衛門は六十五歳で没。

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(御船城址の城山公園には増永三左衛門を顕彰する碑が立っている)

左衛門が造り、午砲に使われてきた大砲も第二次大戦中の金属類回収令により徴用され溶かされてしまったが、三左衛門が別荘として丹精を込めた庭園の「眺世庵」は

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御船の街にひっそりと残っている。

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ところで、御船町はそう言った歴史があるからだろうか、丸ポストが沢山あった。

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御船からは江津湖を経由して、彼岸過ぎとは思えない暑さの中を帰った。

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本日の走行距離:33.6㎞

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