くまもと自転車紀行

熊本市およびその周辺を走行した記録や装備・メンテなど、自転車にまつわることがらを中心としたブログです

内牧 文学碑ライド

午前7時にクロモリロードバイクで出発し、鉄砲小路を経由して大津町平川から坂を上って県道23号線に入り、二重峠を越えて阿蘇谷に入り、県道149号線で内牧へ。

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阿蘇谷最大の温泉街である内牧には明治以降、多くの文人が訪れ、阿蘇谷の自然に触発され、作品を残した。その一部は「文学碑」という形で街のあちこちに残されているので、それを訪ねに来たのだ。 はな阿蘇美の裏手にある「福の神地蔵尊」の階段の中ほどにある句碑。

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熊本を代表する俳人のひとり、有働木母寺(うどうもっぽじ)の句がふたつ彫られている。 「阿蘇谷や よな曇して 遅ざくら」 「霧を日の 昇りつつあり 女郎花(おみなえし)」 震災後休業中の「ともした旅館」の前の句碑は荻原井泉水・種田山頭火の師弟の句碑。

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「コスモス寒く 阿蘇は暮れずある(荻原井泉水)」 「すすきのひかり さえぎるものなし(種田山頭火)」 阿蘇中央公園には「五足の靴」のひとりである吉井勇の歌碑。

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「白秋も われもしとヽに濡れにけり 山荒るヽ日の 阿蘇のよな雨」 サイクリストにも有名な「蘇山郷」には与謝野鉄幹・晶子の歌碑

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「霧の色ひときは黒しかの空に ありて煙るか阿蘇の頂(鉄幹)」 「うす霧や大観峰によりそひて 朝がほのさく阿蘇の山荘(晶子)」 満徳寺の芭蕉句碑(境内のものはレプリカで、風化した実物は裏庭に)。

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「春もやや けしきととのふ 月と梅」 夏目漱石の「二百十日」にも出てくる明行寺の門前には漱石の句碑

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「白萩(しらはぎ)の 露をこぼすや 温泉(ゆ)の流(ながれ)」 そして、温泉街の中心を流れる黒川右岸に、本日のメインとなる 宗不旱(そうふかん)の歌碑。

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「内之牧 朝やみ出でて 湯に通ふ 道のべに聞く 田蛙のこゑ」 昭和17年5月、宗不旱はこの歌を詠んだ後、内牧の宿を出たまま消息を断ち、この歌が絶筆となった。 宗不旱は明治17年5月14日熊本市の上通町に生まれ、まもなく祖父の住む鹿本町の来民に預けられた。幼名は耕一、後に耕一郎と改名。長崎鎮西学院を卒業し熊本医学校に学ぶも中退して上京。その後、短歌に魅せられて歌の道を志す。

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反俗の性格から歌壇に背を向け、朝鮮・中国・台湾を10年に渡り放浪、台湾での硯との出逢いで硯工の道を開く。

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(不旱作の硯)

晩年は持病に堪えながら放浪の旅を続け、「漂泊の歌人」として哀惜された。内牧で消息を絶った後、昭和17年9月25日鞍岳山腹に発見された遺体が、後に宗不旱と判明する。

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(遺体発見現場。ここまでたどり着く道は怖かった)

大戦後、万葉調の大らかな作風のなかに苦渋の人生と夢とが交錯する宗不旱の歌は注目を集め始め、昭和23年に最初の歌碑が水前寺公園内の出水神社の境内に建立された。

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「ふる郷に なほ身を寄する家ありて 春辺を居れば鴬の鳴く」 昭和41年には不旱の故郷鹿本町役場(現・山鹿市鹿本支所)前に歌碑が建てられた。

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「くちなしの 実もて色塗るふるさとの 来民の団扇 春の日に干す」 昭和53年には、宗不旱の終焉の地から少し離れた、グリーンロード沿いの、彼の故郷が見下ろせる地にも歌碑が建てられた。

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「山に居れば 遠方野辺の もえ草を 心に留めて 高きより見る」 前述の内牧の歌碑が昭和61年に建てられた後、昭和63年には的石お茶屋跡内、隼鷹(はやたか)天満宮の境内にも歌碑が建てられた。

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「隼鷹の 宮居の神は 薮なかの 石の破片にて おはしけるかも」 鞍岳山中で絶命した「漂白の歌人」の事を考えながら、県道149号線から長陽大橋を経由して、立野から瀬田へ下り、県道207号線を西に走って帰った。

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本日の走行距離:97.5㎞

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