くまもと自転車紀行

熊本市およびその周辺を走行した記録や装備・メンテなど、自転車にまつわることがらを中心としたブログです

林桜園の足跡辿って・・・

ネットの検索で色々なことが判る時代になったけど、実際に脚を運んでみて初めて分かることも多い。 先日のサイクリングで玉名市の八嘉(はっか)小学校の前を通りかかった時に、地区の史跡の案内板が眼に入った。

DSC00572.jpg

その中に「林桜園」の名前を見つけた。

案内板の拡大.JPG

林桜園(おうえん)は鷹のような鋭い眼をした大男で、その下唇は顎を覆うほど垂れた特徴的な風貌であったが、知らないことは無いというほどの博学で、幕末の、熊本の志士たちが父のように慕った国学者である。

DSC00724.jpg

横井小楠や宮部鼎蔵に比べると現在の一般的な知名度は劣るが、その影響力は、「肥後随一」と言っても過言ではない。 今日は吉次峠、玉名市青野、熊本市南区内田町、中央区桜町、千葉城町、黒髪町などに残る林桜園の足跡を辿った。

DSC00693.jpg
(吉次峠への坂の途中より)

林桜園は寛政10年(1798年)12月28日、熊本城下、いよいよ今週末に開業する「サクラマチ クマモト」のすぐ近く、

DSC00716.jpg

山崎町の下級武士の三男として生まれた。名は「有通」、通称は「藤次」で、「桜園」は号である。父の勧めで、幼くして藩校・時習館に入学。

時習館跡.jpg

ところが14歳の時、先生から「お前は学問ができるから立派な役人になれるぞ」と褒められたところ、「俺は役人みたいなものになるために学問してるんじゃない。そんな事を言うような先生に教えてもらうより、遊んでおったほうがましだ」と時習館を退学してしまう。 その後、桜園は手の付けられない乱暴者となっていた。

すごむ三井.jpg

息子の行く末を案じた父親が意見しても聞く耳をもたないので、堪り兼ねた父親が「これが最後の説得・・・」と涙ながらに諭すと、その姿が桜園の心を動かした。

学問がしたいです.JPG

桜園は、それまでの不孝を陳謝し、固く誓って素行を改めた。

落とす気がしねえ.JPG

日々、藤崎八幡宮と山崎天満宮とに参詣し、

DSC00718.jpg

本居宣長の教えを直接受けた国学者・長瀬真幸に入門し、国学と神道を修めた。さらにその興味は国学と神道にとどまらず、儒学、老子・荘子をはじめ仏典、天文、地理、医学などにも通じた。 文政10年、30歳のときに桜園は招かれて玉名郡伊倉に移り「青野塾」を開いた。

DSC00709.jpg
(ここから先は草ボウボウで、おびただしい数の虫の攻撃に合い、あえなく撤退)

その地の赴任する道中に詠んだ歌の碑が吉次峠に建っている。

DSC00700.jpg

「見るままに 山の雨雲立ちこめて 木葉(このは)の里は 打時雨(うちしぐれ?)つつ」 そして天保8年、40歳になって熊本城下千葉城町に家塾「原道館」を開き、敬神・尊王を説いて武士の子弟の教育にあたった。

DSC00720.jpg

その門人の数は1200人と言われ、勤王党の宮部鼎蔵、

宮部鼎三.jpg

学校党の佐々友房(済々黌創立者)、

佐々友房.jpg

実学党の横井小楠など、

横井小楠.jpg

幕末の肥後の3党派を代表する人物のほか、敬神党(周囲からは「神風連」と呼ばれた)の首領・太田黒伴雄、佐賀の島義勇、久留米の真木和泉、長州の大村益次郎などなど、その門下生は、まさに「多士済々」であった。 明治2年9月から翌年4月にかけて桜園は朝廷に召されて上京し、有栖川宮、岩倉公の下問に答えている。

DSC00736.jpg

明治3年6月に熊本に帰り着くとその後、病気となり、同年10月12日、内田町にある新開大神宮

DSC00711.jpg

に隣接する愛弟子・太田黒伴雄の家にて没。

DSC00713.jpg

72年の生涯を独身で過ごした。 墓所は、黒髪町の桜山神社で、

DSC00725.jpg

肥後勤王党や「神風連の変」を起した敬神党など桜園の教えに導かれた百数十名の志士たちの墓を見守るように

DSC00726.jpg

墓石が建っている。

DSC00733.jpg

本日の走行距離:73.6km

林桜園走行図.JPG

ちなみに本日ゲットした丸ポストは、南区平田町のと、

DSC00714.jpg

中央区城東町の有名なやつのふたつ。

DSC00719.jpg