くまもと自転車紀行

熊本市およびその周辺を走行した記録や装備・メンテなど、自転車にまつわることがらを中心としたブログです

「長岡監物」ライド

恥ずかしながら三日前に一時間ほど草むしりをしたら両足にまだ筋肉痛が残っているので、クロモリロードバイクで午前6時頃に出発し、

白川沿いを熊本港までユタっと平地走。

帰り際、先日レポートした「横井小楠」と関係の深い「長岡監物(けんもつ)」の所縁の地を廻った。

その「長岡監物」は本名が「米田是容(こめだこれかた)」で、幕末の細川藩の家老をしていた。

「長岡」は細川氏の旧姓で、細川一門のほかは筆頭家老の松井氏と次席家老の米田氏の当主だけに許された姓であった。また米田氏の当主は代々「監物」と称することが多く、米田是容も「長岡監物」の名で幕末政治史に署名している。

ちなみに、細川氏の初代肥後藩主・細川忠利から家老として招聘された米田是季(あきすえ)も「長岡監物」を名乗り、熊本城の北の台地を守っていたため、この台地は「監物台」と呼ばれ、

現在の直轄は農林水産省

 

豊前街道から侵入する敵を制圧する櫓も「監物櫓」と呼ばれていた。

最近やっと修復が完了

そして米田氏の下屋敷は熊本市中央区坪井の必由館高校の敷地にあった。

入口にある「必由堂」の石碑は、ここに、米田氏の家臣子弟教育のための私塾があったことを示している。ちなみに、この私塾を拡充し、「必由堂」と名を改めたのが長岡監物(米田是容)であった。

是容は20歳で家老となり、横井小楠らと藩校時習館改革に当たった。

天保14年(1843)横井小楠らと会読をはじめ、次第に参加者も増し実学党と呼ばれる藩政改革派へと発展、しかし筆頭家老松井氏を中心とする保守派学校党との抗争に敗れ、弘化4年(1847)37歳で家老を辞職した。

安政2年(1855)には開国を勧める横井小楠と攘夷論者である監物(是容)は対立して離反、実学党は監物の「坪井派」と小楠の「沼山津派」に分離した。

同じ攘夷派として薩摩の島津斉彬らとも通ずるところがあり、西郷隆盛とも親しく、NHKの大河ドラマ「篤姫」や

「せごどん」でも長岡監物が登場した(チョコっとだけど)。

必由館高校の近くにある「見性禅寺」は米田家の菩提寺で、

47歳でこの世を去った是容を含め、歴代の家長はここに眠っている。

本堂の前に立つ巨大な顕彰碑は嘉永6年(1853)黒船来航に対する浦賀警備の幕命に細川藩総師として出陣した長岡監物(是容)公の功績を讃えている。

本日の走行距離:43.34㎞