蚕に桑の葉を食べさせて育て、その繭から絹を作り出す養蚕業は、かつて日本の主要産業であった。
中国で始まった養蚕業は朝鮮半島を経由して弥生時代には日本にもたらされたと言われるが、特に江戸時代以降は多くの藩で奨励したこともあって、盛んに行われるようになった。
肥後の国では、細川重賢が藩の財政危機を乗り切るために養蚕を奨励した。この際、現・山鹿市下米野で養蚕機織をしていた島己兮(しまいけい)を京都に派遣し、養蚕及び機織の技を磨かせ、帰国後、広く肥後藩内の各地を巡回させ、養蚕の技術指導にあたらせた。 「蚕の神様」と呼ばれた島己兮の墓は生まれ故郷の下米野に建てられ、
その横には「蚕神社」が建立されて県内の養蚕業者の信仰を今も受けている。
幕末期になると肥後藩では、横井小楠門下生の
長野濬平(しゅんぺい)が養蚕の研究に力を入れて「養蚕富国論」を提唱。
維新後は全国の養蚕先進地を視察し、養蚕試験場を開設するなど、熊本での蚕の普及と製糸の機械化により、殖産興業と輸出貿易の振興を目指した。 明治二十六年に設立した熊本製糸合資会社では、努力の結果、遂に「日本一の品質」と評価され、海外に輸出されるようにもなった。
これに触発されて県内各地に製糸工場が造られてた。
明治以降の日本の発展に大きく貢献した養蚕業であったが、人工繊維の発達、安価な外国製品などのために次第に衰退。現在、県内での養蚕業者は片手の指で足りるほどになってしまった。 そんな県下の衰退産業に、数年前から、新しい風が吹き始めている。 前置が少々長くなってしまったが、「新しい風」が吹いている山鹿周辺を廻った。 午前6時過ぎ、カーボンロードバイクで自宅を出発し、北へ走って、
最初に訪れたのは山鹿市鍋田にある「お蚕ファーム」。
6年前に福岡から移住してきた女性が、ひとりで切り盛りしている養蚕農家。「人の手でお蚕さんを育てる」という養蚕農家の文化を、日々学び、大切に残していきたいと思っておられる。
現在、農繁期らしいので直接お会いすることは控え、前日に電話して、写真を撮るお許しを得たが、お話してみると、大変感じの良い女性だった。
岩野川沿いの道から国道3号線を北へ走って次に訪れたのが、廃校した広見小学校跡に昨年完成した「あつまる山鹿シルク」の工場。
その名前から判る通り、求人情報誌を発行する「あつまるホールディングス」(熊本市)が全額出資している。
総工費は約23億円というこの工場の最大の特徴は人工飼料と、密閉された無菌のクリーンルーム。 自前の農場で生産した桑の葉から作った人工飼料を食べさせることで、年間を通じて安定的に養蚕ができ、絹製品だけでなく、化粧品や医薬品も生産するという。
この工場から少し南へ戻って、県道197号線へ左折し、しばらくして左へ折れて西岳方面への九十九折の坂を上る。
広域林道に突き当り、左折してもう少し上ると、「あつまる山鹿シルク」の工場で使用される飼料の原料を栽培している「天空桑園」。
西岳頂上から南に広がる山稜の耕作放棄地を利用して広大な桑畑が広がっていた。
広域林道を南へ走り、菊鹿に降りて、あんずの丘へ。丘の西南の墓地の一角に、立派な「長野家」の墓地があり、
その中に、熊本での養蚕の振興に功績のあった前述の長野濬平の墓。
横には顕彰会の人達が石碑を建てている。
手を合わせたりしていたらお腹が減って来たので、栄養補給に「あんずの丘」の「アン」で季節のスイーツをいただく。
その後は内田川、
菊池川、合志川、小野川、坪井川沿いの道を走り、「インド食堂」でランチして昼過ぎに帰宅。
本日の走行距離:103.8㎞