晩秋の朝の冷え込みが次第に強くなるなか、色付いてきた街路樹を愛でながら職場への道を走り、
朝の用事を済ませて、坪井川沿いの道に入り、坪井の遊水公園から京町台を目指す。 坪井から京町台へのアクセスは、瀬戸坂、
新坂、
中坂、
観音坂があるが、
今回は中坂を少し上って、予備校時代の通学路だった春木坂を上り、
牛くびり坂を経由して
裏京町を抜ける。 磐根橋を渡って城内に入り、百閒石垣の前を通って
熊本市博物館へ。
ここで開催されている秋季特別展覧会「追憶の熊本 -画家・甲斐青萍が描いた城下町の記憶-」を見に来たのだ。
江戸時代には武家屋敷などが広がっていた熊本城下は、明治から昭和にかけてその姿を大きく変えながら今日に至っている。こうした変わりゆく熊本城下の街並みと人々の営みを自身の体験と記憶によって書き残したのが熊本の画家・甲斐青萍(せいひょう)である。
明治十五年に上益城郡御船町に生まれた甲斐青萍は、熊本ホテルキャッスルあたり(藪内)にあった済々黌に入学。
当時、済々黌は、生徒数があまりにも多くなり、「中学校編制及設置規則」に反するようになったため全生徒を二分割し第一済々黌と第二済々黌とすることになった。第一済々黌は黒髪に移転。
第二済々黌はのちに熊本中学校(熊中)となり、さらに大江に移転し、これが現在の熊本高校。
ちなみに、この時、当時の県の方針は校名を「済々中学」と「熊本中学」とするものであったが、熊本中学の初代校長となる野田寛先生が、 「伝統ある『済々黌』という校名を残さなければいけない」と主張して「熊本県中学済々黌」と「熊本県熊本中学校」となったらしい。 ともあれ、「済々黌」に入学した甲斐青萍は、卒業は「熊本中学校」、というユニークな経歴となった。その後、現在の東京藝大に進んだ青萍は、熊本に帰ってきて熊中の美術教師となり、それ以後、熊本の町を描いた作品やスケッチなどを数多く残した。