蓮田善明は、1904(明治37)年に熊本県鹿本郡植木町で生まれた。県立中学済々黌(現在の済々黌高等学校)に入学後、級友らと回覧雑誌を作り、短歌・俳句・詩を発表するようになった。
1923(大正12)年に、広島高等師範学校(現在の広島大学教育学部)に入学。古典文学を学び、学芸部で詩や評論などを発表していた。
卒業後は幹部候補生として陸軍に入隊するが翌年除隊して、岐阜や長野で教員をしながら執筆活動を続け、この頃、幼馴染だった敏子夫人と所帯を持った。
広島文理科大学の国語国文科(現在の広島大学文学部)に再入学して古文を修めた。卒業後は成城高等学校に赴任し、広島文理科大学で知り合った仲間と「文藝文化」を1938(昭和13)年に創刊した。
仲間の一人、清水文雄は学習院中等科時代に教師として文法や作文を指導した16歳の少年の書いた「花ざかりの森」というタイトルの小説を編集会議にかけ、掲載が決まる。少年の名前は平岡公威(きみたけ)。
未成年のため、実名での発表は憚られ、蓮田ら編集委員が薦めた「三島由紀夫」というペンネームが決まった。
蓮田は、三島由紀夫を評して「悠久な日本の歴史の請し子である」と激賞し、その処女作の発刊に尽力するなどして二人は心情的な繋がりを深めていった。
太平洋戦争の開戦後も精力的に文学活動を続けていた蓮田は昭和18年10月に2度目の応召を受け、戦地・マレーシア南部のジョホールバルで終戦を迎えたが、その4日後、上官を射殺し、同じピストルをこめかみに当て、自決した。
かねてから言動に不審なところが多かったその上官が、敗戦が決まると手のひらを返したように天皇・皇軍・日本精神を誹謗したため、蓮田はその上官を斃して自らも「護国の鬼」となって死ぬことを決意したものであった。
蓮田の遺骨はその後進駐した英国軍が持ち帰りを禁じたためシンガポールのゴム林に葬られた。
1960(昭和35)年10月、蓮田の旧制済々黌中学の級友らの尽力で故郷・植木町にある田原坂公園に蓮田の歌碑が建立された。
歌碑には、「ふるさとの 驛におりたち 眺めたる かの薄紅葉 忘らえなくに」という蓮田の遺作となった歌集「をらびうた」の一首が刻まれている。
そして現在、蓮田善明の御霊は熊本市内の見晴らしの良い墓地に家族とともに眠っている。
ちなみに蓮田善明のご長男の外科医・晶一氏とは30年ほど前に何度か仕事でご一緒させていただいたし、「赤ちゃんポスト」の創設者としても有名な産婦人科医であるご次男の太二氏には、わたしめの長女をとりあげていただいたので、お二人の笑顔も思い出しながらご冥福をお祈りした。
一方、三島は1947(昭和22)年に東大法学部を卒業後、大蔵省に勤務するも9ヶ月で退職し、執筆生活に入る。1949(昭和24)年、『仮面の告白』を刊行し、その後も多くの話題作を世に出すとともに多方面に活動を広げていった。そして1970(昭和45)年11月25日、『豊饒の海』第四巻「天人五衰」の最終回原稿を書き上げた後、自衛隊市ヶ谷駐屯地で自決した。
神風連の取材に熊本を訪ね歩いた1年半後だった。
時代と環境は異なるが、晩年の三島の行動は、人生の師と仰いだ蓮田の影響を強く受けている。
熊本市の繁華街に1964(昭和39)年創業の「珈琲アロー」がある。
80歳を越えるマスターが切り盛りする小さな喫茶店のメニューは「琥珀色の珈琲」(税込み500円)のひとつのみで、独自の浅煎り珈琲豆を使った、カップの底が見えるほど澄んだ琥珀色の一杯を求めて海外からもファンが来る。
1966(昭和41)年に熊本を訪れた三島由紀夫はここに連れてこられ、普段はほとんど珈琲を飲まない三島が、たちまちその味の虜になって何杯もお代わりを堪能し、その後も数回この小さな店にふらりと訪ねて来たと言う。
年中無休でカウンターに立っておられるマスターに三島由紀夫との思い出を伺いながら、その前夜にNetflixで観た三島由紀夫のユーモアと優しさ溢れるトークを思い出していた。