くまもと自転車紀行

熊本市およびその周辺を走行した記録や装備・メンテなど、自転車にまつわることがらを中心としたブログです

細川忠興ライド

細川忠興は幾多の戦国武将の中でも傑出したキャラクターの持ち主で、およそ50度の戦で負け知らず。利休の高弟「七哲」に名を連ね、文武に通じたが、一方で非常に気が短く、冷徹。

悲運の武将・明智光秀の三女で数奇な運命を辿ったガラシャ夫人とともに歴史に大きなインパクトを残している。

嫡男、忠利が肥後藩主になったのに伴い、忠興も来熊し、すでに隠居の身で静かな余生を送ったが、そんな忠興の所縁の場所である上江津湖畔の旧砂取細川屋敷と、立田山自然公園の泰勝寺跡をチラっと廻って来た。

11月とは思えない「夏日」の陽射しの元、土曜日の仕事を終え、午後1時過ぎにクロモリロードバイクで出発し、県立熊本図書館が建っている旧砂取細川屋敷跡へ。

池から少し上がった所にあるのが、「希首座(きっそ)の鎮守堂」。

「希首座(きしゅそ)」がなまって、「きっそ」となったと言われている。「希」は人の名前、「首座」は僧の階級を表す。つまり「希僧侶の鎮守堂」ということになる。

ちょっと長くなるけど、このお堂の建った経緯を説明すると・・・

ある日のこと、忠興は京の大徳寺を訪れていた。

出迎えた僧達の中に首座(修行僧の長)を務める、「希」という僧侶がいた。

その時、突如、忠興が抜刀し、その希首座を切り捨てたのだ。

この凶行は大きな問題となったが、事の真実を調べてみるうちに、殺された希首座は忠興とその父・藤孝や明智光秀によって滅ぼされた丹後の一色氏の出であることが判明。一色氏滅亡時にまだ幼かった希首座は見逃され、その後大徳寺で僧侶となり、修行僧の長まで昇りつめていたのだ。

その希首座が何かを企んでいたかどうかは定かでないが、忠興は、ただ出迎えただけの希首座に何かただならぬ気配を感じ取って斬ったものと思われる。

忠興はこの時の刀を「希首座」と名付け、秘蔵とした。

ところが、いつしか夜ごと丑三つ頃になると忠興の寝間の軒の瓦ががらがらと落ちる、ふと怪しい呻き声が聞こえて来る、青白い火の玉が漂う、などの怪奇現象が見られるようになった。

参った忠興は十七日の読経にて希首座の追善供養を営んだところ、それから祟りはピタッと止んだ。そこで希首座のための鎮守堂を建て、その後も供養を続けた。

ちなみに「希首座」と名付けられたその刀は、現在は島田美術館の所蔵となっている。

忠興はその後は八代城に隠居し、

それまでとは全く違った平穏な日々を過ごし、83才でこの世を去った。

臨終の際には「皆共が忠義 戦場が恋しきぞ」と述べており、最後まで武将としての心を忘れていなかった。

自然豊かな立田山の南麓、

立田自然公園内の泰勝寺跡の両親の御廟の横に、


最愛のガラシャ夫人と並んで

静かに眠っている。

それにしても今日は暑かった。

本日の走行距離:たったの11.7㎞