(西郷隆盛から池辺吉十郎に宛てた書簡の一部)
薩軍が熊本へ到着すると、一部の反対はあったものの、行動を起こすことが決まり、熊本城への攻撃が始まった2月22日早朝、健軍神社前に1300人が集結。15小隊を編成し、薩軍に合流した。
熊本隊は、最初、出町の往生院に本営を置き、京町口からの熊本城攻撃に参加。(往生院山門)
その後、高瀬の戦い、吉次峠の戦い(木留の熊本隊本営跡:4年前、初めて「熊本隊」の存在を知った。)
(吉次峠公園の案内板)
に奮戦し、強く存在感を示したが、御船の戦いでは多くの死者を出した。
熊本隊の御船での野戦病院となった「法光寺」では寺内に「丁丑戦死之墓」が建てられ、西南戦争で戦死した熊本隊士の氏名が刻まれている。(明治十年の干支が「丁丑(ひのとうし)」だったので西南戦争のことを「丁丑(ていちょう)戦」とも呼ぶ)
その他にも御船では妙見坂の墓碑には11名の熊本隊士の名が刻まれており、国道445号沿いの「東禅寺」には3名の熊本隊士の墓石が建てられている。
熊本隊はその後も薩軍と行動を共にして矢部、馬見原、椎葉、人吉と転戦を続け、8月17日宮崎県長井村(現・北川町)で降伏し、『西郷の勝利を予測し、熊本での発言を増し、民権論を抑えて、欧米の横暴を排する』ことを目論んだ熊本隊の夢は露と消えた。
参謀以上のものは長崎で処刑され、隊長の池辺吉十郎は居を構えていた横島の山頂墓地に眠っている。
副隊長の松浦新吉朗は遺言通り、武蔵塚にある宮本武蔵の墓の、小道を隔てた東側の隣で眠っている。(復旧はまだまだずっと後でしょうなぁ)
重傷であったことで処刑を免れた佐々友房は、獄中で『青年子弟を教育し、国家有用の人材を養うことが今日の急務である』と決意し、明治12年に出獄後、濟々黌の前身である「同心学舎」を設立。また、尚絅高校の前身である「濟々黌付属女子学校」も設立し、その後は言論界、そして政界にも進出した。
佐々ら熊本隊の生存者が熊本隊の戦死者の追悼と旧事を追懐するために明治18年に手取本町に立てた「丁丑感舊碑(ていちょうかんきゅうのひ)」が、佐々友房が眠る小峯墓地の墓のすぐ近くに移設されている。移設に際して、左右に『自誓書』と『挙兵終始』の2碑が加えられ、当時の彼らの思いを今に伝えている。