くまもと自転車紀行

熊本市およびその周辺を走行した記録や装備・メンテなど、自転車にまつわることがらを中心としたブログです

異彩放つ「熊本協同隊」

往復で92キロ走って、八代の球磨川沿いの「萩原堤」に行ってきた。
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本日のサイクリングの目的地は、その球磨川を見渡すように建っている「宮崎八郎戦没ノ碑」。
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宮崎八郎は荒尾の名家・宮崎家の次男として誕生。
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長兄が早逝したため、八郎が事実上の長兄だった。父親の政賢は「人間同士の差別はない」と天性の自由を愛し、母親の佐喜は「畳の上に死すは男子の恥辱」と教えた。 幼少の頃から学才を発揮し、十二歳で熊本城下の私塾に入門し、やがて藩校・時習館に入学した。明治三年には、藩からの命を受けて洋学を修めに東京へ遊学し、西洋近代思想の洗礼を受けた。
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その後、ルソーの「民約論」(中江兆民訳)に触れ、自由民権に傾倒。明治8年には現在の植木小学校のところに変則熊本県第五番中学校(通称「植木学校」)を開校するために尽力。
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この植木学校の校長は平川惟一。同じく藩校・時習館の出身で、陸軍中尉の経歴があり、同志達からの人望も篤かった。
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宮崎自身は学務委員として志を同じくする者たちと協力して城北の若者の自由民権教育に力を注いだ。
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その当時、農村部で問題になっていたのは「戸長制度」で、明治4年の戸籍法の制定の際に、行政区域に「戸長」と呼ばれる政府から派遣された者を役職に置いた。それまでの庄屋や名主が住民の状況に応じて柔軟な対応をしていたのに対し、「戸長」は画一的な税の取り立てを厳しく行うなどしたため農民からは強い不満が湧き上がっていた。 宮崎八郎ら植木学校関係者は戸長の公選の集会を行うなど、「民権党」と呼ばれ、過激な活動が県を刺激し問題視された。さらに植木学校では来るべき革命戦に備えて、負傷者搬送などの軍事訓練を行ったりしたため、県からの補助金が停止され、わずか半年で閉校となったが、「民権党」の活動は城北地区から阿蘇にかけての「戸長征伐」と呼ばれた農民一揆勃発の下地を作った。 山鹿では、西南戦争勃発直前の明治10年1月29日に民権党の指導により豊前街道沿い、「千代の園酒造」のすぐ近くの「光専寺」で
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農民一万人(主催者発表)が集まり、「戸長」十二名を罷免し、あらたに住民代表の民生官を選出した。
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そして薩軍が熊本に到着し始めると、民権党の約40名は2月20日熊本市の保田窪の菅原神社(うちのすぐそば)に集合し、
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選挙により隊長を平川惟一、参謀に宮崎八郎を選び、熊本協同隊を結成。
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川尻にて薩軍と合流するころには総勢300名となっていた。 士族の復権を目指す薩軍と、自由民権の世を目指す熊本協同隊では、その理念が大きく食い違うが、「反政府」と言う点で一致した。 2月22日の熊本城総攻撃に参戦した後、薩軍の桐野隊とともに山鹿へ向かい、2月23日に山鹿を無血占領。熊本協同隊の主導による民権政治を山鹿でおこなった。この政治体制は薩軍が山鹿から撤退する3月21日までの短命であったが、日本で最初の民権政治体制として特筆すべきものだった。 この間、3月3日には山鹿口の激戦で陣頭指揮にあたっていた平川惟一隊長が29歳の若さで戦死。
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そして4月6日、宮崎八郎八代市萩原の球磨川沿いで戦死(享年27歳)。
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2本の大きな柱を失ったものの、熊本協同隊は後任に選ばれた崎村常雄隊長の下、
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薩軍と共に転戦を繰り返し勇敢に戦った。 そして8月17日、熊本隊と同様、日向の長井村で降伏した。降伏にあたって協同隊は、その挙兵の主旨を法廷で堂々と主張する声明を出し、万国法に基づく捕虜の扱いをするよう求めた。 熊本協同隊の本営詰であった広田尚(ひさし)は
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2年間の投獄の後、政治結社「相愛社」を結成。武器をすて、言論により政治的要求を実現しようとした。 また、西南戦争勃発直前の農民一万人の大集会で民生官に選出された野満長一郎は、その後、熊本協同隊に加わり、分隊長として薩軍と転戦し、投降した後は広田と同様に2年間の投獄の後、郷党の指導者として尊敬された。
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彼の出身地、山鹿市古閑の墓地(大藪サイクルの筋向い)には、熊本城攻撃の際に石垣に取りつき戦死した二人の弟たちと共に「三人野満」として顕彰の碑が建てられている。
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民権国家の樹立を目指して、理念の異なる薩軍に加わった熊本協同隊。「まず西郷に天下を取らせて、その後で我々が謀反をすればよい」と、野望を抱いたものの薩軍と共にその夢も消えた。 しかし、わずかな期間にせよ、彼らの目指す民権政治を山鹿で実現させるなどして、その存在は一連の戦いの中でも異彩を放っている。