早く目が覚めたので家内の用意していたサンドイッチを食べて準備をして午前5時過ぎにカーボンロードバイクで出発。
県道1号線、県道31号線を走っていると太郎迫あたりで東の空が白んでくる。
国道208号線に突き当たって左折して玉名方面へ。
「寛政の大津波」の供養碑で、まだ見てなかったものがいくつかあったので、それを見に行くのだ。 玉東を抜けて玉名市に入る頃に日の出。
県道112号線に入って西へ走り、岱明町の扇崎千人塚へ。
寛政4年(1792年)4月に島原の眉山が崩落して大津波が発生し、玉名郡内では2,221人が亡くなった。同年9月、熊本藩は特に被害の大きかった玉名郡・飽田郡・宇土郡の各郡に供養塔1基を建立した。この碑はそのうちの1基である。
この近くに,、津波で亡くなった人のマイナーな供養碑がいくつかあるらしいので、それらを探しに行く。 扇崎千人塚供養碑から西へ数百メートル進んだところには岱明町と長洲町の境界となる行末(いくすえ)川が流れていて、
その左岸を川下に向かって走り、国道501号線を渡って少し走ると左手に狐嶋(きつねじま)墓地があって、
道端に「狐嶋溺死供養塔・津波死十一人塔」の石柱が立っている。
寛政4年(1792年)4月の大津波の時、干拓地を造成中であった下沖洲村では多くの人が亡くなった。溺死を免れた人々が泣きながら肉親の遺骸を集め、先ほどの扇崎千人塚に仮埋葬した。そのうちの26体を45年後の天保8年(1837年)に溺死者の子孫がこの地に改葬しこの供養塔を建立した。
扇崎千人塚供養塔は藩が建立したのに対し、この狐嶋溺死供養塔は45年の時を経て地元民の発意により建立された点が特筆される、とのこと。 もうひとつの「津波死十一人塔」の方は高さ1mほどの位牌型の石塔らしいけど、残念ながら石塔の上の部分が倒れたまま放置してある状態らしい。
川沿いの道をもう少し下流へ進んで樋門を渡って左に進んだところに
「新川の若宮」が立っていて、
その横にあるのが「流死供養塔」。
木が茂って石碑の正面が見え難いが、「南無妙法蓮華経」と彫られていて、その下に「流死供養塔」と彫ってある。
側面には「文化五年(1808年)建立 施主 京都菱谷佐七」とあるので、寛政の大津波から16年後の建立ということになる。
同じような供養碑が、少し場所を変えて建てられているのは、こちらの供養塔の方がより私的なものなのか?それとも弔う宗派の違いによるものか? 兎にも角にも本日の目的を達成し、帰路は国道501号線を東へ走り、
そのまま県道191号線を走って、尾田の天神樟
の先から坂を上る。
広域農道を過ぎると玉東町に入って蜜柑畑の中を走り、県道113号線へ右折し、木葉山と小岱山を眺めながら
やがて熊本市に入り、県道31号線に入り、硯川からはゆうかファミリーロードを走って帰った。
本日の走行距離:77.4㎞