くまもと自転車紀行

熊本市およびその周辺を走行した記録や装備・メンテなど、自転車にまつわることがらを中心としたブログです

島原大変、肥後迷惑 その1

4年前の東日本大震災の際に、かつて熊本も津波災害を受けていた事を知った。 約220年前の寛政4年、島原半島の眉山が大規模に崩落し、膨大な量の土砂が有明海に流れ込み、それによって生じた津波が熊本の海岸を襲ったもので、「島原大変・肥後迷惑」という言葉が残っているのを初めて知った。

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それでも、「大した被害ではなかったんだろう」としか思っていなかった。 一昨年の7月、たまたま立ち寄った宇土市網田で「寛政の津波供養碑」の案内板が目に入り、立ち寄ってみた。 そうして「島原大変・肥後迷惑」での死者は総計約15000名もいて、しかも、その内、肥後藩での死者が約5000人を占める大災害であった事を知った。 さらに調べると、網田の津波供養碑の他にも、供養碑や、津波の到達点を示す印(『津波石』などと呼ばれる)や伝承が数多く残されていることが判った。 そこで、津波により大きな被害を受けた肥後三郡(玉名郡、飽託郡、宇土郡)を、2回に分けて廻ってみることにする。 午前7時半過ぎにクロモリロードバイクで出発。明午橋経由で県道1号線に入り、上熊本方面へ。 そのまま県道31号線に入り、貢町から硯川町まではゆうかファミリーロードを走り、

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再び県道31号線を走って国道208号線を左折。 木葉を抜け、稲佐から右折。国道の喧騒から開放され、春を愛でながら木葉川沿いをのんびり走る。

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(溢るる涙の蕾から ひとつひとつ香り始める~♪)

菊池川に突き当たって左折し玉名大橋を渡る。

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高瀬の交差点を左折して繁根木川を渡り、道なりに進んで右折して県道112号線に入り西へ。 岱明町に入り、扇坂の千人塚に到着。

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寛政の津波で、この塚の周辺では727名が亡くなった。溺死を免れた人々が肉親の亡骸を集め、仮にここ扇崎の墓に埋めた。その後、藩主の命でこの供養塔が建てられた。

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このような供養碑が当時の玉名郡、天明郡、宇土郡に建てられ、これを「一郡一基の供養塔」と呼ばれる。 さらに県道112号線を西へ走り、厳島神社の先から左折し、道なりに進んで長洲中学校の西側にある新山墓地へ。

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ここには長洲の沖合いで起きた海難事故などの慰霊碑がいくつか建てられているが、その中に寛政の津波の慰霊碑がある。 長洲町では津波により約600人が溺死し、長洲小学校近くの寺に埋葬されたが、明治24年に新山墓地に移され、昭和14年にこの『古墳改葬之碑』が建てられた。

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長洲の海岸から観る島原半島は、「涅槃像」にも例えられる。その左端、顔に相当する部分が寛政の津波の源となった眉山である。

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長洲の街中を抜けて、長洲町清源寺の加藤社(別名:遠見神社、通称:「清正公さん」)へ。

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ここの石段の上から二段目まで津波が押し寄せたという伝承がある。

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後の調査によるとここでの津波高8.6mと推測されている。 上から二段目の石段に立って、頭の中で当時の状況を再現しようと試みるも、なかなか難しい。

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続いて上沖洲の名石(めいし)神社へ。

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景行天皇の九州巡行にまつわる「女石」

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逸話の残るこの神社も津波の直撃を受けた。この際、鳥居や、境内の銀杏の枝に捕まって助かった人がいたとの伝承が残っている。

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ここでの津波高は約6mと推測されている。 続いて国道501号線に戻り横島へ。横島山の南側の麓、京泊の斜面に遺された津波石(津波の到達点を示す石)が法面工事の際に取り除かれ、農林水産省九州農政局の敷地内に展示してある。

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そしてその津波石があったところには印が残されている。

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ここでの津波高は9.6mと推測されている。 その後、国道501号線を走って天水町を抜け、

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河内町に入り、船津の蓮光寺へ。

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この寺の入口の脇に津波供養碑が立っている。

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この供養碑には、船津村、河内村、白浜村、近津村の四か村の罹災死者「人数765名」と刻まれている。 さらに船津の厳島神社の東参道方面に上っていく途中に、寛政7年乙卯10月建立の津波教訓碑。

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。 さらに上って東参道横に、もうひとつ津波供養塔。

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宝篋印塔形の供養塔で、願主は熊本市坪井泰陽禅寺第8世太釣円忠、石工は対岸の肥前永石昌豊だということ。 また、河内町船津では、県道101号線を東へ1.5㎞ほど上がったところに葛山(つづらやま)橋があり、

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この川床まで津波が達したという伝承がある。後の研究ではこの川床の標高は23.4mで、この値は肥後側海岸での最高水位であるらしい。 国道501号線に戻り、南へ走って河内町河内の塩屋郵便局前にも津波供養碑。

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自然石の供養碑で、「寛政4年壬子4月朔日」の紀年銘と銘文が刻まれている。 塩屋地区では東側に少し上がった谷口商店

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のところまで津波が来たという伝承があり、後の計測で、津波高は約14mと推測されている。 国道501号線に戻り、松尾西小学校から左折してしばらく走って松尾町梅洞の熊本水遺産「いんの川」

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の横の三叉路を東へ200mほど上ったところにある「浪先石」。

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大きな自然石の表面に30㎝四方の正方形に彫りこんで平面を造り、「浪先石」の三文字が刻んである。

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後の計測で、ここでの津波高は約15mと推測されている。 ふたたび国道501号線に戻り、坪井川の最初の橋を渡って小島小学校の正門へ。

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ここには一郡一基の、飽託郡の津波供養塔がある。

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最後に、坪井川沿いの道から井芹川沿いの道へ入り、本妙寺の大本殿へ。

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大本殿の左横にも寛政の大津波の翌年、宝篋印塔形の供養塔が建てられている。

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県道1号線に入り、県立体育館のところから朝来た道を戻った。

 

なお、今回の訪問地の詳細な場所については、熊本市役所文化振興課の担当の方、寛政の津波における津波被害調査の第一人者である熊本地学会前会長の堀川治城先生、および長洲町中央公民館の生涯学習課の方に親切に教えていただいた。 この場をお借りして感謝の意を表したい。

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本日の走行距離:99.9㎞ GPSのログは、ガーミンの操作ミスにより小島小学校付近で終了していた。

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