くまもと自転車紀行

熊本市およびその周辺を走行した記録や装備・メンテなど、自転車にまつわることがらを中心としたブログです

八代の戦争遺産めぐり

昨日は78回目の終戦記念日。現在も残っている県内の「戦争遺産」の中で、まだ廻ってないものを見に八代へ。

今回も早寝早起きで暗い内にカーボンロードバイクで出発。

出水ふれあい通りから画図の田舎道を抜け、中の瀬橋、めど町橋を渡って国道266号線を南下して県道313号線、312号線を走り、宇城市に入る頃にやっと東の空が白み始めた。

小川の商店街から砂川を渡り、

しばらく裏道を走って「道の駅 竜北」からはしばらく朝焼けの田舎道を走って氷川を渡り、

宮原からは薩摩街道を走る。

八代インターの裏を通り、

妙見宮を経由してさらに南下すると突き当りには、「おれんじ鉄道」が球磨川を渡る鉄橋が掛かっている。

戦時中、セメントや製紙などの工場が多かった八代は米国機の標的となり、幾度となく空襲を受けた。

鉄道施設も攻撃の対象となることが多く、球磨川にかかるこの鉄橋の橋桁のコンクリートには多数の弾痕が残っている。

道を戻り、新幹線の高架沿いの自転車道を走って

新八代駅の先からは鹿児島本線沿いの道を北上しイグサの生産地で有名な千丁へ。

 

1944年7月7日、国防の要となるサイパンが陥落すると、来るべき沖縄戦にそなえて、沖縄から本土に8万人、台湾に2万人の「老幼婦女子」の疎開方針を決定。沖縄から九州へ、旧国民学校の児童らを対象にした「学童集団疎開」の準備も7月中旬から始まった。

 

8月22日にトカラ列島・悪石島沖で沈没し、沖縄の学童780人を含む1485人が犠牲となった「対馬丸の悲劇」のように、生命の危険と隣り合わせの疎開だった。

この時、もっとも多くの学童・家族を受け入れたのが八代だった。

 

八代市千丁の光誓寺には3家族9名がたどり着いた。

子どもたちは、地元の小学校に通いながら終戦までの約1年をここで過ごした。

「ヤーサン(ひもじいよ)、ヒーサン(寒いよ)、シカラーサン(親元を離れて寂しいよ)」

疎開した学童たちの言葉も気候も風習も違う土地での戦時体験は、そんな言葉で語り継がれている。

鹿児島本線沿いの道に戻って北上し、JR有佐駅の先から左折して鏡町の町名の由来ともなった「鏡ケ池」に到着。

1945年8月7日に松橋を空襲したB25爆撃機が鏡川河口に墜落(胴体着陸)。搭乗していた米兵5人は福岡に移送され、無差別爆撃の罪で8月15日に福岡市郊外で処刑された。

墜落機の搭乗員

墜落した爆撃機の機体の残骸が、ここ、鏡ヶ池に投棄された。

地元紙によれば、池の近くに住む人は当時国民学校の2年生で、池の中の米軍機の主翼と尾翼が見えたと証言しており、また、教師が「池に米軍機があることを言ってはいけない」と厳しく命じられたという人の証言もある。そして、その後、いつの間にか機体はなくなったとのこと。

戦後、地域の清掃活動で池の底から長さ約10センチの薬きょう6個を拾い上げて保管している人がおり、その後、その薬きょうは米軍使用の12.7ミリ機銃弾と判明。採集状況や証言内容から、松橋空襲で墜落した米軍機のものと判断されたという。

再び鹿児島本線沿いの道に戻って北上し、突き当たって左折して県道255線へ右折して北上。JR小川駅の近くのセブンで休憩後、線路沿いの田舎道を北上し、

宇土半島

 

松橋から県道14号線を北上。そのまま国道3号線を北上し、川尻からは、いつものように新幹線の高架沿いの道を北上。

白川沿いの道を走って帰った。

本日の走行距離:92.6㎞