前回に引き続き、熊本市内の天然痘に所縁のありそうな場所をポタリングしたのでご報告。
まずは「ご亭どんがグジャッペ」だった「おてもやん」。
「グジャッペ」は「痘痕(あばた)で酷い」という意味。
お次は、夏目漱石。
漱石は3歳の時に受けた種痘で運悪く天然痘を発症し、右頬に痘痕(あばた)が残った。
代表作の「吾輩は猫である」でも「主人は痘痕面(あばたづら)である。」との記述がある。
教師時代に「夏目の鬼がわら」と生徒たちに囃された経験があり、写真撮影の際には右頬が見え難いポーズをとることが多かった。
黒髪キャンパスの漱石像の右の頬は、
左の頬に比べて凹凸があるようにも見えるが、気のせいか?
漱石が熊本に赴任してから3年目の明治32年、熊本で天然痘が大流行し、勤務していた第五高等学校では、すでに種痘を済ませた職員は届け出る必要があったようで、漱石が提出した「種痘届」も残っている。
さて、「天然痘 熊本」とネット検索すると、上位を占めるのが、今年3月の蟻田功博士の死去の記事である。
蟻田功博士は1926年(昭和元年)熊本市の生まれ。旧制・熊本中学校、
第五高等学校から
熊本医科大学へと進学し、
1950年に卒業後は予防医学など公衆衛生の道を志して厚生省(当時)に入職。その後、世界規模の仕事を目指して1962年に世界保健機構(WHO)に転職し、アフリカ事務局員としてリベリアに赴任し天然痘対策に着手。
1977年にはWHOの世界天然痘根絶本部長に就任。種痘の遅れていたアジアでは天然痘ワクチンの製造過程でウシやブタ由来の蛋白質が含まれていることもあり、宗教上の理由もある中、粘り強く種痘作業を進め、アフリカ最後の流行地ソマリアでは紛争中にもかかわらずワクチン接種を続行。1980年には天然痘根絶宣言に繋げた。
1985年に帰国後、国立熊本病院(現・国立病院機構熊本医療センター)院長に就任。
病院の整備を進めるとともに、開発途上国の予防医療のスタッフの研修活動にも力を入れ、その後の「小児マヒ根絶計画」、「麻疹根絶計画」、「新生児破傷風の零発生計画」などに受け継がれている。
そのような業績に対し、1988年に熊本県は二人目となる「県民栄誉賞」を授与。
県庁プロムナードの、早朝にも関わらず訪問者の絶えない「ルフィー像」の近くには、
蟻田博士の受賞記念に植樹されたクスノキがスクスクと成長していた。
最後は、熊本市北区大窪に本社のある「KMバイオロジクス株式会社」。
前身である「化学及血清療法研究所(通称・化血研)」が熊本城三の丸の現・細川刑部邸駐車場に創設された1950年から天然痘ワクチンを製造を開始した。
日本では1974年の特殊な例の天然痘患者除けば1956年にはほぼ根絶し、学童への集団接種も1976年以降行なわれていないが、「KMバイオロジクス株式会社」は日本で唯一、天然痘ワクチンの製造を続けている。
1980年に根絶が宣言された天然痘であるが、そのウイルスは米国アトランタとロシア共和国モスクワの研究所には冷凍保存されおり、DNAの塩基配列も決定しているので、細菌兵器として悪用される危険性が残っており、自衛隊退院の海外派遣時や、テロ対策の種痘目的で備蓄するためにワクチン製造が続けられていると言う。
本日の走行距離:31.6㎞