久しぶりに阿蘇方面へ脚を伸ばそうかと早起きしたら、サッカーの日本対ドイツの親善試合をやっていて、勝ちそうな雰囲気になってついつい最後まで見てしまったので予定変更して熊本市内をポタリング。
先日、県立第一高校を訪問した時に、安永蕗子氏の歌碑を見て、以前彼女の所縁の地を訪れる計画をしたけどまだ実行していないのを思い出したのだ。
熊本を代表する歌人・安永蕗子は大正9年、熊本市歩町(かちまち:現・中央区安政町)に安永信一郎・春子の長女として生まれた。
父の信一郎は、水道町交差点の角に小さな店舗(文具、書籍、タバコ、切手などを販売)を営む歌人だった。
やがて白川の東側、九品寺の二の井手沿いに引っ越し、
手取尋常小学校、
城東尋常小学校に通い、
第一高等女学校、
熊本女子師範学校を卒業し、
小学校や高校の国語の教員をしていて終戦。
その後、教員をしながら童話を書いたりしていたが白川中学校に勤務していた28歳の時に結核を患い休職。
5年に及ぶ闘病生活を送り、最終的には胸郭形成術を受け、その後、社会復帰した。
丁度その頃、小説家を目指しながら地元新聞社に勤務していた10歳下の妹・道子が、作家への道が開けて上京することになった。
そのため、それまで妹がしていた、父・信一郎が主宰する歌誌「椎の木」の編集の仕事をはじめた。終戦後再開した水道町交差点角の店舗で、店番と寝泊まりをしながらの仕事で、必要に迫られて多くの歌を発表した。
小さい頃から、いつも父に歌会に連れていかれていたし、すでに病気療養中に母から勧められて多くの歌を作っていたのもあるが、編集作業を手伝うようになってからは、数多くの歌を投稿し、間もなく中央の歌壇にも認められるようになった。その後も多くの賞を受け、70歳の時、ついには短歌界の最高峰、迢空賞も受賞。その後、宮中歌会始では多年に渡って選者を務めた。
また、13歳頃から叔父の指導を受けて続きて来た書道も、短歌に続いて頭角を現すようになり、こちらでも多くの賞をもらっている。熊本の秋の風物詩「みずあかり」の題字や、
銀座通りの夏目漱石の「光琳寺の住居跡」のレリーフの漱石の句の文字にも遺されている。
身近なものではテレビCMでも馴染みのある、「ヤマウチの味みそ」のパッケージの文字も彼女が手掛けたもの。
さらには、最年少三冠王の村上宗隆や、
日本代表イケメンDFの谷口彰悟
も歌った長嶺中学校校歌をはじめ、井芹中学校、出水南中学校、楠中学校、清水中学校などの校歌の作詞も行なっているが、わたし的には、校歌の作詞に関しては「凡人」かな?
平成2年には江津湖の湖畔近くに転居し、
江津湖の自然を詠むことが多くなった。
平成13年、創作舞台『短歌ファンタジー「水の女」~青湖風説~』が熊本市民会館で上演された際には、当時バレエを習っていた、わたくしの長女が「ミゾソバ」役の群舞で参加した時、舞台の袖で多くの短歌の朗読をされたのが安永蕗子さんの生の姿を拝見した最初であった。
その後、数回、講演会でお話を伺う機会があったが、平成24年3月に92歳で永眠された。
広く世に認められながら、自分にとっては「生地は聖地」と熊本を離れず、日常を独自の感覚で捉え、心に沁みる数多くの歌を詠んだ人生だった。
県立熊本第一高等学校の校門近くには歌碑が建てられていて、
「純白の 羽をひらきて 大空に 翔びたつまでを 学べひたすら」
と、在校生の背中を押している。
また、水前寺江津湖公園の遊歩道の歌碑は
「はなびらを 幾重かさねて 夜桜の あはれましろき 花のくらやみ」
と、夜桜そのものよりも背景の暗闇を主役にしていて、彼女の歌の特徴を表しており、ここを通るたびに、彼女の凛とした表情が思い出される。
本日の走行距離:23.0㎞