くまもと自転車紀行

熊本市およびその周辺を走行した記録や装備・メンテなど、自転車にまつわることがらを中心としたブログです

南阿蘇・大津・菊陽・歌碑めぐり

熊本を詠んだ歌碑が残っている歌人のひとりに、若山牧水がいる。

旅と酒と自然を愛した

学生時代、国語の成績が良くはなかったわたしめでも、牧水の歌なら、

「白鳥は 哀しからずや 空の青 海のあをにも 染まずただよふ」

「幾山河 越えさり行かば 寂しさの はてなむ国ぞ 今日も旅ゆく」

「いざ行かむ 行きてまだ見ぬ 山を見む このさびしさに 君は耐ふるや」

の三首くらいは聞き覚えがある。

若山牧水は、明治35年11月9日、17歳のとき延岡中学校の修学旅行で日向往還を通って熊本までの旅をし、馬見原の旅館で詠んだ短歌が歌碑になっている。

日向往還をサイクリングしていて発見

牧水は早稲田大学に進学して短歌の活動を本格的にして行くが、前述の有名な三首は、学生時代に人妻との恋に墜ちていた頃の作品だと言う。

その後、牧水は長野県出身の歌人・太田喜志子と結婚。

夫婦で阿蘇を訪れた際の歌碑が残っているそうなので、カーボンロードバイクで観に行くことにする。

曇り空の元、供合線をひたすら東へ走り、

瀬田から坂を上がって国道に出る前に右折し、立野ダムの出来具合を眺め、

久しぶりに修理工事の終わった長陽大橋を渡り、国道325号線を左折し、「アコンカグアリゾーツ」へ。

旧・荒牧温泉時代にここに泊まった際の牧水夫婦の歌碑が駐車場の横に建っている。

石碑の前面に夫婦の歌が並べて彫ってあって、向かって右側が牧水の歌で

「名を聞きて 久しかりしか 栃の木の いで湯に来り 入ればたのしき」、

 

左側が妻・喜志子の歌で

「妹と背の 滝つ瀬あれや 目ざましの たきにそひたる 鮎かへりの滝」。

字が余り読めない状況

国道325号線で新阿蘇大橋を渡り、国道57号線で坂を下って大津に入り、大津日吉神社へ。

境内の片隅には「郷土を詠める歌」という歌碑が建てられ、五首の歌が彫られている中に若山牧水の歌がある。

牧水の歌は息子の若山旅人の書

 

「阿蘇のみち 大津の宿に 分かれつる 役者の髪の 山ざくら花」

 

歌碑の解説文には「大正初期阿蘇へ向う途次、大津町で碑の歌を詠んだ。」とあったが、明治37年~明治40年の歌を集めた歌集『別離』に収録されており、中学時代の修学旅行を回想したものと言われている。

この歌碑は昭和52年(1977年)8月、菊陽町出身で、上京後、若山牧水に師事した「宮本旅人(たびと)」という人が建立している。

この人のことは知らなかったので調べてみた。


宮本旅人(1907~1982)は、現在の和水町江田の生まれで、本名は護。母の故郷の菊陽町で4歳から23歳まで育った。

熊本中学校から熊本師範学校に進む頃から短歌を作るようになり、卒業後一時上京して若山牧水に師事し、牧水より「旅人」の名を与えられる。その後、熊本で小学校教員となるが辞して作詞家を志し、再び上京。生計をたてるために東京中野の小学校に勤務した後、本格的な作詞活動に入る。歌謡曲や校歌を作詞したほか、少年雑誌や少女雑誌で児童ものの小説やルポルタージュ作品などを発表した。晩年は郷里熊本で歌謡誌「火の国歌謡」を創刊・主宰し、後進の育成に努めた。

晩年の宮本旅人

菊陽町中央公民館敷地内には宮本旅人の歌碑が建てられているらしいので、大津からの帰り道に寄ってみた。

公民館の玄関横の植え込みに三つの石碑が建っていて、

一番右がふるさとを詠った短歌の歌碑で

作り直したのかピッカピカ

「長かりし 流転の旅の はてにして たどりつきたる ここはふるさと」

一番左の歌碑は、全国高等学校野球選手権大会の大会歌「栄冠は君に輝く」、東京五輪の選手団入場行進曲「オリンピック・マーチ」をはじめ、膨大な作曲数を誇り、数年前のNHKの朝ドラのモデルともなった作曲家・古関裕而(こせきゆうじ)が、仕事仲間でもあった宮本旅人のこの短歌に曲をつけたもので、歌のタイトルは「ふるさとにて」となっている。

そして中央の小さめの石碑は、宮本旅人が作詞を担当し、鈴木哲夫が曲を作って、ディック・ミネが歌って大ヒットした「旅姿三人男」の歌碑。

ちなみに、この「旅姿三人男」は、初版のディック・ミネ以降、石原裕次郎、美空ひばり、舟木一夫、梅宮辰夫、天童よしみなどなど、そうそうたるメンバーが録音をしているが、ここでは、わたしめの敬愛する三波春夫バージョンをご紹介。

「若山牧水」が、あらぬ方向へ行ってしまったが、北風が強まる中、白川右岸沿いに走って帰った。

本日の走行距離:60.6㎞