熊本地震で全壊した「ジェーンズ邸」が場所を100m余り移動して再建され、9月1日から一般公開されたので行ってみた。
ただ、開館は午前9時半からなので、その前にひとっ走り。
そのついでにジェーンズ邸に所縁のある、花岡山、熊本第一高校、南千反畑町、水道町にも立ち寄った。
明治の初頭、熊本では教育の近代化を目指して、西洋医学を学ぶ医学校と、西洋文化全般を学ぶ洋学校がつくられたが、洋学校の外国人教師として招かれたのが米国の退役軍人、リロイ・ランシング・ジェーンズ。ジェーンズとその家族・妻と二人の子どもが過ごしたのがこの「ジェーンズ邸」であった。
熊本で建築された初めての洋館で、長崎の職人を呼んで莫大な費用をかけて現在、熊本第一高校がある熊本城の古城跡に造らせたものである。
来日時、34歳のジェーンズはニューヨークのウェストポイントにある陸軍士官学校では南北戦争後に教官として勤務した経験もあったため、
同校の教育法を模倣した。英語、数学、地理、歴史、物理、化学、天文、地質、生物などの各教科をすべて一人で、日本語を使わず英語で厳格に指導して
優秀な卒業生を輩出する一方、来日前に農業に従事した経験を活かして海外の野菜の作り方をはじめ、パンや牛乳、牛肉を食べることを勧めたり、西洋式の料理の仕方を教え、熊本市民の生活の近代化にも貢献した。
ところが、来日3年を過ぎる頃から、禁じられていたキリスト教の教育を「聖書の輪読会」という形で「ジェーンズ邸」で始めたところ、次第に大勢の生徒が集まるようになり、ついには、キリスト教に改宗した生徒34名が夜間、花岡山(当時は「祇園山」)頂上に集まり、
自主的に奉教趣意書に署名してこれを日本に広めようと盟約を交わしたことが世に知られ、大問題となった。
このため、日本で初めて男女共学を実施した熊本洋学校は閉校となり、明治9年7月にジェーンズは熊本を去った。
翌年、西南戦争が始まると、官軍総督の有栖川宮熾仁「ありすがわのみやたるひと」親王の宿泊所となり、ここで日本赤十字社の前身・博愛社の設立を許可したため、「日本赤十字社発祥の地」としても知られる。
明治27年に南千反畑町に移築し、
物産館や県立高等女学校の仮校舎としても使用された。また、日露戦争や第一次大戦の際にはロシア人やドイツ人の将校クラスの捕虜収容所ともなった。
昭和7年、水道町にあった日赤熊本病院の院内に移築し、日赤事務所、診療所、血液センターとして使われた。
さらに、昭和45年には日赤熊本病院の移転に伴い、記念館として水前寺公園東隣の熊本市動物園跡地に移築されたが、
平成28年の熊本地震で全壊した。
ジェーンズ邸の5つ目の居場所となった水前寺江津湖公園の水前寺地区はこれまでの場所と比べると、風光明媚で、公共交通機関の便も良い。
熊本大空襲にも、熊本大洪水にも耐え、
150年以上に渡って近代の熊本市の歴史を見て来たこの建物が末永くこの地に建ち続けることを祈念した。
なお、「ジェーンズ邸」についてもっと知りたい方は、前・記念館長の黒田孔太郎先生が書いたこちらの連載をどうぞ。
本日の走行距離:41.0㎞