早起きして体力維持のためにクロモリロードバイクで出発し、若葉が茂ってきてモコモコした山肌となっている金峰山へ。
その途中に、熊本にかつてあった「収容所」の痕跡をいくつか探し回って来た。
わたしの父はシベリアで4年間の抑留生活を送っており、酔うとその話を聞かされたので、自分としては、シベリアの収容所の事は比較的よく知っていたが、熊本にもかつて俘虜(ふりょ:捕虜の事を正式には「俘虜」と呼ぶらしい)のための収容所があったことを、つい最近まで知らなかったのだ。 そんなわけで今回は日露戦争後のロシア人俘虜収容所について。 明治38年3月の奉天での激戦と、5月末の日本海海戦での勝利に日本中が沸き立った。
その一方で、約7万2000人のロシア人俘虜が日本に送られることになった。 俘虜収容所は最大規模の愛媛県の松山収容所のほか、全国29ヵ所に設けられた。 熊本では、将校クラスの俘虜は明午橋通りの「物産館(古城地区から移築されていた洋学校教師館・ジェーンズ邸)」が収容所となった。
一方、下士卒クラスの捕虜は渡鹿練兵場に新たに建てられたバラックに収容され、最終的な熊本での収容人員は計6,003人となった。
「収容所」と聞くと、俘虜に対して人権を無視した過酷な取り扱いをするところのイメージがあるが、そうではなかった。 当時は国際的な戦時の規約である「陸戦の法規慣例に関する条約」があり、日本は明治33年(1900年)、この条約を批准しており、俘虜に対しても博愛的に接する必要があった。 加えて、欧米を中心とする国際社会への新参者であった日本政府は国際世論を有利に導くため、より一層ロシア人俘虜を手厚く遇した。 こうして収容所のロシア人俘虜たちは比較的自由に外出でき、収容所各地の名所旧跡の見学などに赴いたという。 熊本の収容所では、水前寺公園などへの見物や、五高への親睦のための訪問の記録が残っている。
約1年半の収容の後、帰国する将校たちとの別れを惜しんで予餞会が催されたりもしている。
このように当時の日本にとってロシア人俘虜の受け入れは「第二の開国」とでも呼ぶべき事態で、異国人を初めて見る民衆の反応、俘虜の脱走事件や遊郭通い、地元民を交えた「捕虜祭り」開催など、地元民の「異文化体験エピソード」も各地に残されているという。
(「後篇」に続く・・・)