くまもと自転車紀行

熊本市およびその周辺を走行した記録や装備・メンテなど、自転車にまつわることがらを中心としたブログです

高群逸枝ライド

前回、くまもと文学・歴史館に行った時、ギャラリーに展示してある「熊本県近代文化功労者顕彰パネル」の中で、刺すような視線を感じるイラストがあった。

「高群逸枝」の名前は20年ほど前だったか、「熊本男女共同参画センター」の講演会で初めて聞いて、その後も何度か耳にしたことがあったが詳しくは知らなかったので、ちらっと勉強して、熊本時代の高群逸枝に所縁のある場所を廻ってみることに。

 

空の白み始めた午前6時過ぎにカーボンロードバイクで出発して、

美里町の佐俣小学校跡、払川小学校跡、宇城市松橋町寄田の寄田神社、それに熊本市西区春日の鐘淵紡績熊本工場跡を廻り、それらで撮った画像に過去の画像も加えてレポート。


高群逸枝は明治27年(1894年)、熊本県下益城郡豊川村南豊崎(現、宇城市松橋町豊川)に、小学校校長であった高群勝太郎の長女として誕生。

16歳で熊本師範学校女子部に入学するも翌年に退学。

現在の熊大付属中学校が熊本師範学校跡地

 

その後、熊本女子学校の4年に編入。

熊本市中央区九品寺の大江高等女学校の前身が「熊本女学校」

その後、鐘淵紡績熊本工場に女工として1年間働いた後は代用教員として父が校長を務めていた砥用小学校や

現在は特別養護老人ホーム

 

払川小学校に勤務。

現在は体験型の団体向け宿泊施設「元気の森かじか」

若い頃より新聞などで短歌や詩を発表しており、一時、新聞記者を目指したが挫折。

記者修行をした熊本市中央区京町の「専念寺」

代用教員時代の文通をきっかけに交際していた橋本憲三との結婚を機に、東京にその活躍の場所を求めて移転する。

アナーキズムと出会って女性史研究を志し、平塚らいてうと共に女性運動を始める傍ら、女性史研究を進めた。夫の憲三も逸枝の活動をよく支え、『母系制の研究』や『招婿婚の研究』などの業績と数多くの著書を残し、日本における女性史研究分野の発展に寄与した。

昭和37年(1962年)、熊本県松橋町の名誉町民となり、幼い頃に馴染みのある松橋町寄田の寄田神社の境内には、

地元青年有志の発案により「望郷子守歌の歌碑」が建立された。

この「望郷子守歌」とは高群逸枝が昭和28年の熊本大水害の報を聞き、故郷を偲んで作ったもので、幼い頃に聞かされた五木の子守歌に模して作ったものと言われている。

その2年後の昭和39年(1964年)に東京で死去。

平成6年10月には、高群逸枝生誕百年を記念して、松橋中学校生徒会が建立した歌碑が同じく寄田神社の境内に建てられた。

うららかに 日のてる春も うらがなし 風のさやげる 雁回山は

 

さて、松橋町の寄田神社からは県道14号線と国道3号線を北上し、川尻からは九州新幹線高架沿いの道、白川沿いの道を走り、熊本市西区春日の鐘淵紡績熊本工場跡を最後に訪れた。

高群逸枝が女工として働いた創業明治27年の「鐘淵紡績熊本工場」はその後、親会社の業務改変に伴い変遷を遂げ、最後は「月星化成熊本工場」として平成16年にその役目を終えた。

現在は熊本合同庁舎や西税務署、民間の店舗などが林立し、その面影は無くなったが、かつての風景を残してほしいと言う地域の希望もあって、駐輪場の壁など数カ所に工場の赤煉瓦が使われいる。

また、当時の工場の電気室は移築されて熊本学園大学の正門横に「産業歴史館」として保存されており、

工場の医務室の建屋は金峰山の一の岳の東の山麓に移設されて民間の店舗として保存されている。

 

本日の走行距離:75.4㎞