くまもと自転車紀行

熊本市およびその周辺を走行した記録や装備・メンテなど、自転車にまつわることがらを中心としたブログです

熊本にもあった収容所(後篇)

 前回に引き続き、日曜日の早朝、金峰山に上ったついでに市内を廻って撮った画像に、過去に撮った画像やネットの画像を加えて、かつての熊本の収容所とその顛末をご紹介。

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日露戦争から約10年経った大正3年(1914年)7月、欧州で第一次世界大戦が勃発すると、日英同盟の合意に基づいてイギリスからの要請を受ける形で、同年8月日本はドイツに対し宣戦布告をし、中国におけるドイツの拠点である青島(チンタオ)とその周辺を攻撃した。

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圧倒的な兵力差により青島での戦闘は1週間で終了し、南太平洋に点在するドイツ領での戦闘も含め、3か月後にはドイツ軍の降伏で日独間の戦闘は終結した。その結果、4700人に及ぶドイツ兵(オーストリア・ハンガリー兵も含む)および青島在住の民間人が俘虜となり日本へ送られた。 当初設置された収容所は全国12カ所で、熊本にも設置されたが、戦闘が予想より早く終了したため十分な準備ができなかったらしい。 熊本に送られた651名の俘虜の収容施設は、日露戦争後と同様に将校クラスには当時の「物産館(元は「ジェーンズ邸」)」が提供された。

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下士卒クラスは横手、細工町の9つの寺院に分散して収容され、これらの寺院には新たに便所・浴室・洗面所・物干しなどが急造された。

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(民間収容所のひとつとなった横手の妙永寺)

ところが、将校が収容された「物産館」は秋の大正天皇即位の大典に合わせた行事に使用されることになり、熊本市が物産館の早急な明け渡しを要求したことに加え、下士卒の収容に当てられた寺院側も合わせて苦情を申し出たため、

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(妙永寺山門から出入りするドイツ人俘虜)

1915年6月9日に俘虜全員は久留米の収容所に移送され、熊本での収容所は7カ月で閉鎖された。

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(移送先の久留米収容所)

日本各地でのドイツ人俘虜約4700人の収容期間はヴェルサイユ条約の締結により帰国が許されるまで足掛け6年近くに及び、その間、俘虜と住民の間でスポーツや音楽などの交流が各地で行われた。 俘虜達のほとんどは民間人が志願して入隊していた者や、青島で商売をしていた民間人で、多くが一般の職業技能を有しており、その技術や文化がその後に日本にも少なからぬ影響を与えた。 俘虜の中には日本での生活に馴染んだ者も多く、第一次世界大戦の終戦で開放された後も日本に留まることを希望した者は170名にも及んだ。 熊本から久留米の収容所に移った俘虜のひとり、アウグスト・ローマイヤは入隊前は食肉加工業に携わっていて、間もなく収容所の調理係となり、俘虜達の食事を作りながら日本語を習得していった。解放後は日本に在留することを選び、帝国ホテルの厨房に就職し、その翌年には自分の店を持つに至った。食肉加工の技術を活かしてソーセージやハムを作り、特に彼の考案した「ロースハム」は日本を代表するハムとなり、

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レストランの経営なども経て現在でも食肉加工業の中で確立した地位を維持している。

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(本社工場玄関に立つローマイヤのレリーフ像)

また、大阪の収容所に入所した菓子職人のカール・ユーハイムは青島で喫茶店を営む民間人であったが俘虜となり、開放後は日本に在住することを希望して、青島に留まっていた妻子を日本に呼び、東京でドイツ菓子店を経営。日本で初めてバウムクーヘンを焼き、マロングラッセを販売した菓子職人として有名になった。

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(カール・ユーハイムとバウムクーヘン)

その後の経営はバターを納入していた業者が引継ぎ現在に至っている。

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(神戸のユーハイム本社ビル)

一方、6年に渡る収容の間に戦傷や疾病がもとで全国で86名が死亡している。その内、疾病で死亡したものはほとんどが1918年から1920年にかけてパンデミックとなった「スペイン風邪」が

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日本にも上陸し、

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収容所にも流行が及んだ結果であった。 熊本にドイツ人俘虜の収容所が存在した7カ月の間、日露戦争後のロシア人俘虜と同様に厚遇されたが収容当初の生活環境の不満から俘虜4名が脱走を企て、松尾の「盗人島」(現在、灯台がある岬)で逮捕され禁固刑に処せられる事件が発生した。

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(国道501号線沿いの「盗人島」)

さらには不幸にも水兵カール・シリングの一名が4月15日に病死した。スペイン風邪のパンデミック以前のことで、死因を知ることはできないが、その亡骸は当時の陸軍墓地であった小峰墓地に手厚く埋葬された。その墓は1903年に熊本の地で亡くなった熊本医学校のドイツ語教師オイゲン・ガンテル氏とともに、2008年に熊本日独協会の手により慰霊碑「日独友好の礎(いしじ)」として整備され今日に至っている。

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この日の走行距離:38.5㎞

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